この世の中では、あらゆることにおいて間違った認識観が定着してしまっています。
そのうちの一つが【宗教】についてです。
古代から世界各地でその地域独自の宗教がつくられ、色んな神々が崇められてきました。
古代史を習っても、現代とは余りに違いすぎて、「そんな時代があったんだな」くらいにしか思わなかったかと思います。
しかし学校では教えてくれませんが、この世の中は全てのことが横に縦に、昔から今に繋がっています。
それは宗教も同じです。
それぞれの宗教が単体で成立したのではなく、名前や中身を少し変えて、古代から今の時代に受け継がれているのです。
この認識観は、実は生きる上でとても重要なことです。
多くの人が間違って捉えてしまっている認識観を大まかに挙げましたので、それぞれについて書いていきたいと思います。
共通点で分かる世界中の宗教の古代からの繋がり
世界中の「神々」は同じ神だった
多くの宗教が、時代や国を超えて同じ神を崇拝しています。
例えば、【太陽神】といえば、エジプトやインカ文明、日本でも天照大神が神道で崇められていますね。
以下が太陽神一覧 – Wikipediaに記載されている【太陽神】の一覧です。
男神
女神
名前 | 由来 |
---|---|
アイネ (Áine) | アイルランド神話 |
アルビナ (Albina) | エトルリア神話 |
天照大御神 (Amaterasu) | 日本神話 |
アリンナ (Arinna) | ヒッタイト神話 |
アタヌア (Atanua) | ポリネシア人 |
アタラパ (Atarapa) | ポリネシア人 |
バステト (Bastet) | エジプト神話 |
バイウェ (Beiwe) | サーミ人 |
エキ (Eki) | バスク神話 |
エレクトリイオネ (Electryone) | ギリシア神話 |
エーオース (Eos) | ギリシア神話 |
エーディン (Étaín) | アイルランド神話 |
グノウェー (Gnowee) | アボリジニ |
マリナ (Malina) | イヌイット神話 |
摩利支天 (Marici) | 仏教 |
マウ (Mawu) | ダホメ王国 |
サラニュ (Saranyu) | ヒンドゥー教 |
サウレ (Saulė) | バルト人 |
セクメト (Sekhmet) | エジプト神話 |
シャプシュ (Shapash) | ウガリット神話 |
ソール (Sól) | 北欧神話 |
セサン (Thesan) | エトルリア神話 |
トカプチュプカムイ (Tokap Chup Kamui) | アイヌ |
稚日女尊 (Wakahirume) | 日本神話 |
ワラ (Wala) | アボリジニ |
ワリウプラニリ (Wuriupranili) | アボリジニ |
羲和 (Xihe) | 中国神話 |
イヒ (Yhi) | カルラウル人 |
ゾリャ・ウトレンニャヤ (Zorya Utrennyaya) | スラヴ神話 |
ゾリャ・ヴチェルニャヤ (Zorya Vechernyaya) | スラヴ神話 |
ギリシャ神話・アポローン
ギリシャ神話・へーリオス
エジプト神話・太陽神
エジプト神話・ラー
インカ帝国・インティ
アステカ神話・ウィツィロポチトリ
インド神話・スーリヤ
仏教・大日如来
日本神話・天照大神
太陽神だけでもこんなに沢山の宗教で拝まれているのですね。
また、多くが太陽を表す円と放射状に出ている光がシンボルとして書かれてあります。
もう一つ、多くの宗教で重要視されている神様が【牛】です。
エジプト神話
シバ神と牛のナンデン
アリシュタ(梵: अरिष्ट, Ariṣṭa)あるいはアリシュタースラ(梵: अरिष्टासुर, Ariṣṭāsura)は、インド神話に登場するアスラである。マトゥラーの悪王カンサに仕える悪魔の1人。『バーガヴァタ・プラーナ(英語版)』によると巨大な牡牛の姿をしたアスラで、背中のこぶはまるで雲を被った山のようであり、尾を直立させると雲に届いたという。成長したクリシュナによって退治された。
ギリシャ神話・ミノタウロス
午頭天王
モレク
今回はこの、「太陽神」と「牛の頭を持つ神」に焦点を当てていきたいと思います。
まず、各地で拝まれている太陽神ですが、太陽神を拝む民族の地域に共通するのが、巨石・ピラミッド、生贄です。共通点は他にもいくつもあるのですが、今回はこれらについて写真を用いて提示していきたいと思います。
世界中にある巨石・ピラミッド
RAPT | 古代ケルトのドルメンも日本の神社も同じドルイド教の生け贄儀式の祭儀場でした。
エジプト
インド
コナーラクのスーリヤ寺院
ハンピ
ヨーロッパ
地中海・マルタ巨石文明
『コゾ島とマルタ島をぐるりと一周』ゴゾ島(マルタ)の旅行記・ブログ by AandMさん【フォートラベル】
マルタ共和国旅行(2) 古代の遺跡編|巨石神殿と巨人は言葉で語らない –
フランス・カルナック列石(紀元前5000年~3000年)
ケルト・ストーンヘンジ
コーカサス
ロシアのコーカサス山脈の西側斜面と麓の平原には、以下のようなドルメンが3000基ほどあり、現地の人々はこれらの遺跡を「死者の家」と呼んでいるそうです。
メソアメリカ
ペルー・マチュピチュ
パレンケ・太陽の神殿
テオティワカン遺跡
マヤ・チチェン・イッツァ、ユカタン
中国
中国
日本
このように巨石やピラミッドは世界中で共通していることが分かります。
これらの場所で共通する人間の【生贄】
これらの場所では必ずといってよいほど沢山の遺骨が見つかっています。表向き「墓」ということになっていますが、遺体の損傷の具合や、その地域や文明、宗教にまつわる言い伝えや残された壁画などの遺跡から、明らかに神々?への【生贄】によって殺された形跡があることが分かります。
エジプト
生贄の習慣はエジプト文明の初期からあった。
紀元前3000年、古代エジプト。
ピラミッド建造の約400年前、エジプト人は死後の世界を重要視していた。
古代エジプト初期の首都アビドスへ向かう葬列、そこには王家の墓がある。
エジプト初期の王ホル・アハ、別名戦うタカが死去、来世においてもその権威は衰えないとされ、優秀な側近の同行が求められた。
葬儀の列が墓に到着すると、王の側近の1人である高位の貴族が前に歩みでる。
20代半ば、人生の盛りだが、自ら進んでその命を終えようとしている。
古代エジプト人は楽園に行けるのは王と王に殉死した者だけだと信じていた。
銅製か青銅製のナイフによって楽園への扉が開かれると信じられていた。
5000年後、考古学者達がホル・アハの墓の周りから35人の若い男性の骨を発見、彼らは王への生贄だったのか?
しかし彼らが生贄だったという証拠は十分ではないとして自然史だったと考える研究者もいる。
生贄の習慣があった可能性を示す最も有力な証拠は当時の壁画。
男が喉を切り裂かれているように見える。
喉を切り裂くと痕跡は残るのか実験してみよう。
外科病理医Dr.Scott Nelson(Surgical Pathologist)、人の軟組織外科手術解剖の専門家。
「これは医療用模型、人間の首の筋肉は非常に熱くて胸骨から頭の裏まで延び、胸鎖乳突筋と呼ばれる。
エジプトの神官は首の構造を知っていた。
首の下のほうを切れば喉頭に当たり、痛みと出血が生じるだけで絶命はしない。
この模型の中には血液に見立てた青い物質が入っている。
では喉を切ろう。
首の厚い筋肉を切るのは大変。
今頸動脈と気管に刃をいれている。
深い傷になった。
筋肉、気管の奥まで切れている。
椎骨を取り出してみる。
椎骨に刃の跡が残っている。」
エジプトの墓からも同じ跡のついた椎骨が見つかっている。
生贄が行われていた証拠だ。
方法も間違いない。
ホル・アハの墓で生贄の男性が楽園に思いをはせ、死の恐怖と戦っている。
頸動脈をどくどくと血が流れる。
神官が男性の喉を切り裂き、動脈を切断。
男性は王のもとへ旅立つ。
さらに34人の若者が生贄となる。
首に傷のない遺骨もある。
ホル・アハへの生贄の一部は違う方法で殺された。
来世を信じ穏やかな気持ちで神官の前に立つ男性。
しかし来世を約束されていても首を絞められると体は抵抗する。
Nelson「絞殺はとても残酷な生贄の殺し方。
絶命まで時間がかかる。
神官はロープを使ったと思われる。
首を絞めるとまず気管がつぶされ、肺に空気が供給されなくなる。
さらに絞めると頸動脈を圧迫。
脳への血液の供給が止まる。
25~30秒後、生贄は意識を失うだろう。
しかしこれで終わりではない。
死に抵抗して手足をばたつかせ、痙攣を起こすはず。
神官は生贄が絶命するまで強く絞め続けなければならない。
非常に苦しい死に方。」
遺骨から絞殺の跡を見つけるのは困難。
しかしホル・アハの墓の周りから発見された35本の遺骨の中に証拠となりそうな頭蓋骨があった。
頭蓋骨の歯の部分を見て象牙質にシミがあれば絞殺の可能性がある。
絞殺時、歯の欠陥が破裂することがある。
それがシミになる。
紀元前2900年代に新しい王朝が誕生し、このような生贄が行われなくなったようだ。
刃の跡や絞首の跡が残る遺骨は見つかっていない。
彼らは気付いたのだろう。
殉死によって次の王朝の側近となる人材が失われてしまうと。
その後王の墓には生贄ではなく側近の像が副葬された。
来世ではこれらの像が人間になり、王の要望に応えると考えられていた。
エジプトといえば太陽神ですね。
ラー(Ra)、あるいはレー(Re)は、エジプト神話における太陽神である。
語源はエジプト語でそのまま、「Ra」(太陽)。ヘリオポリス九柱神の一柱。
解説[編集]
ラーは、ハヤブサの頭をもつ姿で描かれることが多い。後にアトゥムと習合し、ヘリオポリスでは、最も重要な神とされる。
原始の海ヌンから生まれ、シューやテフヌト(もとは、アトゥムの子供)、バステトの父とされる。またセクメトは、ラーが人間を滅ぼすために、その目から生み出されたとされる。目からは、強烈な光を放ち、敵を焼き滅ぼす。ラーを象徴する元素と色は、それぞれ火と赤。
太陽神であるラーは、人間を滅ぼすことが目的のようです。
メソアメリカ
マヤやアステカ文明で生贄が行われていたことは、有名ですね。
チチェン・イッツァは、1988年に世界遺産に登録されたメキシコ南部のユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡です。チチェン・イッツァとはマヤ語で「聖なる泉のほとりの水の魔法使い」という意味です。古典期を代表する「ティカル」などのマヤ中央部の諸都市は9世紀に崩壊、ほとんど無人状態となり後古典期には北部と南部高地に人口が集中しました。
チチェン・イッツァは北部マヤの中心地でありますが、その遺物は中央メキシコ(トルテカ)の強い影響を受けて、マヤとメキシコの混合した姿となっています。重厚感あふれる世界遺産ですが、ここは悲しい儀式が多々行われていた場所でもありました。
遺跡にまつわる凄惨な歴史
チチェン・イッツァはメキシコの南東部、ユカタン半島北部に栄えた古代都市で、6〜7世紀に映画を極めた旧チチェンと、10世紀以降の新チチェンの2つのエリアに別れています。旧エリアには天文台カラコルや宮殿の役割をしていた尼僧院など、古代マヤの高度な文明と平和を象徴するような建物があります。
しかしその一方で有名なカスティーヨと呼ばれる、翼蛇神クルカンのピラミッドがある新チチェンエリアには、トルテカ文明いの影響を受けた血生臭い歴史の跡が刻まれています。それは「戦士の神殿」や「チャックモール」、「ジャガーの神殿」、「ツォンパントリ」「競技場」など遺跡の壁や柱、内部のあちらこちらにも生々しい儀式の様子が描かれていることからも、いかに凄惨な歴史があったのかが想像できるほどです。
凄惨たる生贄の儀式
こちらはチチェン・イッツァの中にある『戦士の神殿』、ここでは生贄の儀式が行われていました。頂上の祭壇の入口に鎮座しているのが生贄台のチャックモールです。首を切られ心臓を抜かれた身体は、階段から落とされしたで待ち受けている人々に回収され、時には食べられることもあったといいます。
ここで行われていた儀式は身の毛もよだつものでした。生贄となった者は4人の神官におさえつけられ、衣服を剥ぎ取られて全身を真青に塗られ、祭壇に仰向けで寝かされました。そして黒曜石のナイフで胸をあけて、心臓を抉り出されるのです。まだ温かくて脈打つ心臓を神に捧げ、息絶えた生贄の亡骸から生皮をはがして神官がまとい踊りを奉納するのでありました。
(生贄の心臓が置かれた台座)
生贄となった者の心臓がおかれるのはチャックモールと呼ばれる、神殿の頂上にある像の手の上です。
チャックモールは戦士の象徴で、生贄などの供物を神へと運ぶ存在であり、像の上で人身御供の儀式も行われていました。ツォンパントリは頭蓋骨の台座とも呼ばれその生贄たちの生首が置かれた場所があり、数え気入れないほどの人間の頭のレリーフが彫られています。
遺跡にのこる儀式の爪痕
競技場では、勝者が殺されるという球技が行われていました。2つのチームにわかれ、ゴムを固めてボール状にした球体を腕や足でう撃ち合い、城内の内壁に嵌め込まれた右の輪に先にくぐらせたほうが勝者になるというルールでした。勝ったチームの選手たちが栄冠の証として首を切られ、シンボルとしてツォンパントリに生首をさらされるのでした。
競技場の内壁にはその一部始終を読み取ることのできるレリーフが残されています。手に生首をさげた選手や、片膝をついた選手の首が切り落とされ、首のつけ根からは血飛沫がほとばしる残虐なものも見られるといいます。
チチェン・イッツァには、セノーテという生贄の泉もあります。ここでは、純潔の美しい乙女を泉に沈めて生贄としていたという伝承があり、調査の結果、多くの人骨と貴金属が発見されています。
なぜ生贄として、多くの人が犠牲になったのか
なぜここまで残虐な方法で、多くの人々を「生贄」として犠牲にしなければならなかったのでしょうか。古代マヤの人々は自然界すべてに神が宿ると信じていました。神官だけでなく庶民も神が宿ると信じ、神官だけでなく庶民も神に感謝し畏敬する儀式を行う習慣があったのです。
古来から伝わるマヤの神話には、太陽=神の世界が過去に四つあり、現在は五つ目の太陽の世界であるとされていました。そして神は不死ではなく、四つの太陽=神の世界が滅びたように、五つ目の太陽の世界になれば神も死して世界は滅びてしまうと考えていたのです。そのため太陽の出ない夜を恐れ、また再び太陽が登るように常に太陽である神に、その活力となる新鮮な血を捧げ続けなければならない、と信じていたのでした。
メキシコシティ郊外の新世界、最古のピラミッド群建造は、約2000年前。
古代一大都市ティオティワカン遺跡。
20k㎡を超す広さにピラミッドや集合住宅の跡が点在する。
一時は人口20万人もの大都市だった。
しかし当時の言語も都市名も不明で、後の人々により“神々の都市”という意味のティオティワカンと呼ばれた。
人々の習慣についても謎だが、残酷な儀式が行われた形跡が見つかっている。
手を縛られた状態の人骨が寺院の下で見つかった。
建物を清めるための生贄のようだが、残された象形文字は複雑で解読できない。
14世紀にこの地を征服したアステカ人には、生贄の風習があった。
そして儀式の目的や様子を細かに記録している。
メキシコシティ中央にあるトラテロルコ遺跡、アステカ王国の巨大都市遺跡。
14~15世紀、テスココ湖上の島で栄えた都市で、多くの橋や通路で湖の外と結ばれていた。
付近一帯の巨大ピラミッドは、人々の生活と宗教の拠り所だった。
当初このピラミッドの土台は80m四方、高さは40m以上あったと思われる。
エジプトと違いアステカの王達は過去のピラミッドの上に建物を造った。
最初は低いピラミッドだったが、歴代の王達がその上に建設を重ねたため高くなった。
その結果、ビル14階もの高さになった。
Dr.Michael Smith(Arizona State University)「ここのピラミッドは7層から成る。
各層が完成する度に、落成式が行われた。
演説や行進が行われたり、音楽が奏でられ、にぎやかな祝宴が開かれた。
生贄の儀式も行われた。」
アステカの絵文書コデックスに記録がある。
Smith「司祭が様々な儀式を行う姿や、生贄を捧げる様子も描かれている。
頂上の祭壇で生贄を仰向けに押さえつけて、胸を切り裂いて心臓を取り出す。
その心臓を高く神々へと捧げ、体は下へ放り捨てる。
記録では神々を喜ばせるためとされているが、政治記な目的もある。
広場に集まった民衆に、王の力を示すための儀式でもあった。
民衆に恐怖を与えることで、社会統制を図った。」
エジプトと同様、ピラミッドは権力の証であり、死の記念碑だった。
インド
数あるインドの神々の中で、コナラクで信仰されるのが太陽神スーリヤ。(ヒンドゥ教成立以前から信仰されていた。)
近くの村を訪れ人々の名前を聞くと、太陽神にあやかり名前をスーリヤにする人が多い。
各家庭では毎朝神への祈りを欠かせない。
祈りの対象は馬車の車輪。
村人「コナラクの太陽寺院のシンボルが車輪、その車輪には私達の未来が刻まれている。」
うっそうと茂る林の中に突然現れるスーリヤ寺院、古代インドの太陽神スーリヤを祀った寺院。
13世紀後期、東ガンガ朝時代に建造された。
しかしイスラムの侵攻と共に廃墟となり、その存在は幻となってしまった。
19世紀イギリスの探検隊が偶然発見、その壮麗な姿に声を失ったという。
巨大な神殿の壁には至る所に緻密なヒンドゥ彫刻が施されていた。
人々の営み、古代舞踊のポーズ、戦争の記憶、そして神話の数々。
様々なモチーフが神殿の壁という壁を埋め尽くしていた。
ノーベル賞にも輝いたベンガルの詩人タゴールは、この寺院に感動し、ここでは人間の言葉は負けてしまうと述べている。
スーリヤ寺院は主に3つの建物から成り立っている。
門から入ると現れる舞楽殿、神に祈りをささげるため、様々な芸能が繰り広げられる舞台。
舞楽殿の奥にあるのは拝殿、高さ40m、ピラミッド状の堂々たる建物。
その奥には本殿がそびえていたが、現在は崩れ去ってしまった。
その基礎部分には四方に1体ずつのスーリヤ像が残されている。
東西南北の壁に配置され、それぞれの方向の天空を見守っているのだ。
本殿の内部には巨大な本尊があったとされるが、その行方は謎。
世界遺産スーリヤ寺院は暦を司る寺として知られている。
そしてその暦の中に暗号が隠されている。
インドの古代文献ヴェーダによると太陽神スーリヤは7頭立ての馬車に乗り、天空を駆け巡るとある。
寺院の中心にある拝殿と本殿、その前に7頭の馬の石像が並んでいる。
そして建物全体を多くの車輪が支えている。
その姿は今にも動き出しそう。
つまりこの建物自体が巨大な馬車に見立てて設計されている。
ではこの寺院が暦を司ってということはどういうことなのか?
実は彫刻の数に秘密が隠されていた。
7頭の馬は7曜日を表す。つまり1週間を指している。
建物全体を支える車輪の数は全部で12対、これは1年を意味する。
そして1つ1つの1車輪に注目してみると、車輪自体が正確な時を刻む日時計になっている。
1日は3時間単位、午前6時から始まり9時、12時、午後3時、6時と刻まれている。
1つの時間は60個のメモリで分割されている。
3分単位で時間を計ることができたのだ。
暦を表したいせきといえば、マヤのチチェン・イッツァのピラミッドが有名。
ピラミッドの4方向には階段がある。
それぞれの段の数は91段、4面全部足すと364段、それに頂上の1段を加えれば365段、1年を表す。
さらに方位も緻密に計算されている。
春分の日、なんと階段の影が胴体を作り出し、巨大な蛇が姿を現す。
一方、スーリヤ寺院も見事な天文学的計算が施されている。
春分、秋分の日、コナラクの海に昇った朝日は門から舞楽殿を通り、さらに拝殿を通過して本殿へ差し込む。
そして本殿の奥に安置されていたスーリヤ神を赤々と照らし出す。
そもそも古代のインドはゼロの概念を生み出したり、10進法を発見するなど、数学や天文学の分野で高度な文明を持っていた。
スーリヤ寺院はその知識の集大成だったのだ。
オデッサ地方に伝わるオデッシーダンス、スーリヤ寺院では神に捧げるため、この舞が盛んに踊られていた。
寺院にとってそれはなくてはならない神聖なものだった。
舞は披露されていたのが舞楽殿、屋根は失われてしまったが、そこには巨大な柱が残されている
そのすべてに踊る巫女たちの彫刻がびっしり。
様々なポーズは生き生きと刻み込まれていた。
スーリヤ神に捧げられていた聖なる舞踊、ところがその演目の最後になると衝撃的なシーンが繰り広げられた。
なんと神が人々を次々と刀で斬ってゆくのだ。
そこに秘められた意味とは?
略
スーリヤ寺院のあるKonarkの地名にも驚くべき事実が隠されている。
サンスクリッド語でラクは太陽の意味、コナとは悪魔という意味。
人々の幸福を願うはずのコナラクのスーリヤ寺院、しかしそこには破壊の神カルキの姿が刻印されていた。
そしてコナラクとは悪魔の太陽という意味、いったいこれは何を意味するのか?
神なのに悪魔という意味なのですね。
インドは神智学でも重要視されている国です。
RAPT×読者対談〈第110弾〉インドとガンジーと神智学協会。インド独立運動もやはり源平合戦だった。
あらゆる宗教に天地創造の物語がある。
インドのバラモン教の聖典ヴェーダでは天地創造は生贄の儀式から始まっている。
ヴェーダによると宇宙は生贄の体から生まれた。
その時に犠牲になったのがプルシャ(原人)、彼が自らの手足を切断して炎の中に投げ込み、万物が生まれたという。
古代インド人はプルシャにならった。
生贄は暴力ではなく命を再生させるものと考えられた。
自分の命を生贄として差し出すのは自分のもっとも大切なものを捧げるということ。
インドにはと様な宗教や宗派があり、歴史的に様々な形の生贄が存在した。
コンドの人々はインド西部の丘陵地に住む先住民族。
ヒンズー教ではなく、タリ・ペニュと呼ばれる女神を信仰している。
彼らの生業は農業と狩り、女神をなだめることで健康が手に入り、狩りに成功し、戦いに勝てると信じている。
彼らは200年ほど前まで女神に生贄をささげていた。
1835年コンド族の村で生贄が森に運ばれる。
生贄はドラッグやアルコールを飲ませられたり、脚の骨を折られたりして行動の自由を奪われた。
生贄を2枚の厚板に縛り付け、祭司が民衆を呼ぶ。
彼らは剣を使い生贄の肉を切り裂く。
血や残った遺体は女神への捧げものとして大地に注がれ、神殿で焼かれた。
女神は見返りに敵に勝つ力を与えてくれる。
しかしその力は植民地軍には通用しなかった。
1830年代イギリス軍がコンド族の儀式撲滅に乗り出す。
しかし皮肉なことに儀式の回数はイギリス軍がやってきてから増えた。
こうした儀式の増加は抗議の意味もあったのだろう。
イギリスの植民地支配に対して抵抗の意志を示したのだ。
結局イギリス軍は武力を行使し、儀式をやめさせた。
時には無差別的な殺人を行い、この地域を制圧しようとした。
イギリス政府に強制的に従わせようと彼らの村を焼き払ったりもした。
最終的にコンド族はイギリスに降伏し、儀式をやめた。
現在も彼らは丘陵地に住み、女神を信仰している。
生贄の儀式は行っていない。
しかしインドのどこかで今でも生贄が行われていると言われている。
1800年代インドを征服したイギリスはサティーという風習を知る。
夫が火葬される際、その寡婦も一緒に焼かれるというもの。
妻に対する夫の支配力を表した。
死さえも命じることができると・・・
生贄になると寡婦自身にも利益があった。
夫と来世に行けるうえに女神の地位も与えられる。
生きる者の人生を左右する力を得るのだ。
サティーの儀式について初めて記録されたのは約2500年前、完全な灰化のため火葬には特別な薪が使われる。
高価な白檀の薪で夫の遺体とその妻を焼く。
草や枝を使って薪を組み立て、ギーというバターオイルをかけ引火性を高める。
会葬者が列をなして見守る中、20歳の寡婦が家から火葬場に連れてこられる。
会葬者達は大歓声をあげ、恍惚感に浸りながら大きな行事が開催されるのを喜んだ。
彼らは繰り返し同じ文句を叫び、女神サティや生贄となる女性をたたえた。
寡婦は不安そうに薪の山の上に登り、夫の頭を膝に載せる。
家族の一員が松明で薪に点火する。
炎に囲まれた寡婦は悲鳴をあげ、周りに助けを求める。
焼殺は絶命まで時間がかかり、大変な痛みを伴う。
Nelson「現代の火葬では遺体が完全に灰になるまで約480℃で3時間ほど焼く。
しかし屋外で焼くと温度は230~260℃にしかならず、現代の火葬より時間がかかる。
火がつけられて最初に燃えるのは髪、次に皮膚が燃え、ひび割れる。
皮下脂肪が溶けて漏れ出す。
この時点で生贄は早く絶命したいだろう。
7~10分で神経終末が第3度熱傷で破壊される。
生贄はもはや痛みなど感じなくなり、自分の火葬を見物する1人となる。」
炎に飲み込まれ、寡婦の肉は黒く焦げてゆく。
肉の焼ける悪臭が辺りに広がる。
自発的にサティーを行った寡婦は少数。
多くは強制的だった。
アヘンを使って寡婦を混乱させ、火葬場に連れていった。
1829年サティーは法律で禁じられた。
しかし完全には消えず、私的な儀式として残った。
ガヤー、サーガル、ライプルなどインドの奥地で続けられている。
2006年にアメリカの新聞が報じた。“その年の8~12月までの間にサティーの儀式が3回行われた。”
その内1人は止められて助かった。
ケルト
前世期末の独ベルリン近郊で建造された「木製のストーンヘンジ」付近で、子どもや女性が生贄にされた痕跡が発見された。学術誌「Antiquity」が、学者らの発表を掲載した。
スプートニク日本
「男性の遺骸がないということ、また手が縛られた遺骨や儀式用の供物の破片が集団墓地にあったことは、人間が生贄とされた痕跡を我々が発見したことを物語っている」と、独・バーデン=ヴュルテンベルグ州エスリンゲン郡にある歴史建造物保護局のアンドレイ・スパッツィエ氏は述べた。
ストーンヘンジ:英ウィルトシャー州にある謎の石造物。世界でもっとも有名な考古学的遺跡のひとつ。
英国のストーンヘンジと同じように、ドイツで発見されたこの遺跡も同心円(大きな円の中に小さな円がある)で構成され、おそらく同様に儀式的な意味を持っていた。
この場所の周囲では、後頭部を鈍器で殴打されて殺された女性や子供の遺骨が入った穴が約30見つかっている。
学者らは、この新しい謎多き遺跡の解明のため、研究を続けている。
1991年、ストーンヘンジによく似た建造物がベルリンから140キロの地点で発見された。発見された遺跡は、石造ではなく、木製だった。
英国のストーンヘンジと同じように、ドイツで発見されたこの遺跡も同心円(大きな円の中に小さな円がある)で構成され、おそらく同様に儀式的な意味を持っていた。
この場所の周囲では、後頭部を鈍器で殴打されて殺された女性や子供の遺骨が入った穴が約30見つかっている。
学者らは、この新しい謎多き遺跡の解明のため、研究を続けている。
紀元前50年代、ローマがガリア(現在のフランス)を侵攻した後、共和政ローマの軍人であり政治家のユリウス・カエサルは、ドルイドのことを「祭事に従事し、公的および私的な生贄の儀式を行い、宗教に関するあらゆる物事を解釈する人々」だと書き残した。彼らは天文学や教育、武勇に関心があり、神の恩恵を受けるために、仲間のガリア人を生贄として捧げる習慣がある、とカエサルは述べている。なんと、編み細工で作った巨大な人型の檻「ウィッカーマン」の中に生きている人間を閉じ込め、火をつけたという。(参考記事:「超ワイルドな砂漠のイベント「バーニングマン」写真22点」)
17世紀に描かれた、巨大な人型の檻「ウィッカーマン」。ユリウス・カエサルによると、ケルトには、編み細工で作った人型の像に生贄を閉じ込め、火をつけるという慣習があった。(PHOTOGRAPH BY FINE ART IMAGES, HERITAGE IMAGES/GETTY)
[画像のクリックで拡大表示]
ドルイドが血を好むことに着目した古代ローマ人は、他にもいる。博物学者であり軍人の大プリニウスは、ドルイドがヤドリギと人間の生贄の両方を神聖視しており、「人を殺すことは、最も信心深い行為であり、その肉を食べることは、最高の健康の祝福を得ることだった」と書き記した。さらに、歴史家であり政治家のタキトゥスは、ウェールズでの戦いで、ドルイドが「祭壇に捕虜の血をかけて内臓を捧げ、神々に祈っていた」と述べている。
ケルト人にとって生贄、とりわけ人間の生贄を神に捧げることは大変重要なことでした。 『ファルサリア』という本では、突き殺した生贄を木に吊るす、ワイン樽で溺死させる、焼き殺すといった方法による生贄の捧げ方が紹介されています。
さらに恐ろしい方法として、木を編んで作ったウィッカーマンと呼ばれる巨大な人形の中に生贄たちを詰め込み焼き殺すという儀式もおこなわれました。
ここまでご覧になられたら、古代から巨石やピラミッドがあるところで生贄の儀式が行われていたことが分かります。彼らは同じ【太陽神】という神への生贄として人間を残虐な方法で痛めつけて捧げていたようです。
今回例に挙げたのは、【太陽神】でしたが、次は【牛の頭を持つ神】について書いていきます。
この牛の神も、子供を食べるような生贄を要求する性質の神であることが写真からも分かります。
ギリシャ神話に登場するミノタウロスも、人間を食べる怪物です。
ヨーロッパ
上の写真でマルタ島の巨石遺跡の写真を載せました。
マルタについてはサラッとした言及されていなかったので、その近くのカルタゴについて書きます。
マルタ諸島は、紀元前6世紀半ば頃、西地中海の他のほとんどのフェニキア人の植民地とともに、カルタゴの覇権下に置かれたそうです。
古代カルタゴ人は子どもを神への供物として殺していた – GIGAZINE
恐るべき幼児犠牲の儀式がここで?聖地トフェ
カルタゴ港から少し歩いたところに「トフェ」と呼ばれる遺跡があります。この名は旧約聖書に由来し、トフェト、トペト、トペテと書かれることもあります。
ここはフェニキア人が炎の中に幼児を投げこんで神への生贄にしたとされる聖地。墓石のように見えるのは神に奉納した石碑です。1920年代の発掘調査で、実際にここからたくさんの炭化した幼児の骨と、2万個を超える骨壺が見つかりました。
トフェは初め、バアル・ハモンという神のための聖域でしたが、やがてその配偶神であるカルタゴの守護神タニトを合わせて祀る場となりました。
タニトはシリアの地母神アシュタルテとの関連が深い豊穣神で、死と再生を司る冥界の神でもありました。カルタゴでは紀元前5世紀以降にバアル・ハモンと並ぶ最高神となります。
女神タニトは〇の下に一と△を書いた記号で表現され、カルタゴ兵は盾にこの印を描いて戦ったともいわれています。フェニキア時代の遺物にもよく刻まれていて、トフェでもタニトの印がたくさん見られます(写真右端の石碑)。
入口を入ってすぐの石碑が立ち並ぶ様が印象的なトフェですが、その左右のエリアにもまだまだ石碑があります。
左奥には、ローマ時代のアーチに覆われて洞窟のようになった神秘的な空間が。右側の入口に近い地面には巨大なタニトの印がありますのでお見逃しなく。またフェニキア文字がはっきり刻まれている石碑もありますので、探してみてください。
※住所など一部省略あり
カルタゴではカルタゴ – Wikipediaにもフェニキア人が神々へ子供を生贄に捧げていた事が記されています。
宗教[編集]
カルタゴでは、フェニキアから伝わったバアル崇拝やアスタルト崇拝と旧来の土着信仰に由来するタニト崇拝とが融合し、独自の宗教形態を作り出していた。これにエジプトの神々やギリシャのデメテル崇拝が加わり、ますます多様化していった。この宗教形態はカルタゴがローマ支配下に置かれた後も引き継がれ、ローマの神々と共に信仰の対象とされた。ウマイヤ朝によってイスラム教が伝えられると急速に廃れていった。
風習
プルタルコスは、フェニキア人が子供を犠牲にして捧げ物にしていたことを記録に残している。赤ん坊が死産した場合、最も若い子供が両親によって生贄に供されていた、ということである。テルトゥリアヌス、オロシウス、ディオドロス・シクロスなどもこの風習を記録に残しているが、ティトゥス・リウィウスやポリュビオスは触れていない。
トペテ(en、トフェトとも)と呼ばれる子供のための共同墓地は、紀元前400年から紀元前200年の間に建造されたと推定されている。この墓地からは20,000個の骨壷が出土し、骨壷には新生児の黒焦げになった骨が入っており、中には胎児や2歳ぐらいの幼児のものもあった。そして火葬された子供達の名は、墓碑にも骨壷にも刻まれることは無かった。
バアルは牛の頭をしていて生贄を要求する神であるので、バアル=モレク=午頭天王=スサノオは同じであると分かっています。
RAPT | 京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
残念ですが、全国の八坂神社の総本社であるところの 京都八坂神社の主祭神は素戔嗚尊、別名は牛頭天王です。
祇園祭は蘇民将来神話に基づき疫病を祓う目的があります。
ですから各鉾町では祭壇の中央に「牛頭天王」と明記した御札を祀り。
祇園祭で配布される粽には「蘇民将来子孫の者なり」 と書かれた御札が必ず付きます。
起源は大陸から渡来したユダヤ系で間違いなさそうですが、「牛頭天王」の名の通り、エロヒムではなく牛のバール神となります。
(註:エロヒムとはヤハウェのことです。「祇園祭」でヤハウェが祀られているというのは嘘で、実は
バールが祭られているということですね。)
何故かユダヤの民は牛を崇めるのが大好きで、エロヒムに何度怒られても懲りずに牛信仰に傾倒しています。
かの栄華を誇ったソロモン大王は晩年、女性にそそのかされバール神を偶像崇拝して、エロヒムに見限られ王国衰退の原因となり。
また、後の南ユダ王国のマナセ王もしかり。
モーゼがシナイ山上に上がってエロヒム会見が長いといって、麓では牛の像を作って、拝みだし、またヤーウェに怒られて。
ホントに懲りません。
天災などの時にはバール神に子供を殺して火に投げ込み生贄に捧げるモロクとよばれる慣習もありました。
祇園祭でも子供を神に捧げられた御稚児として扱います。
現在では長刀鉾だけが生きてる子供を生稚児として扱いますが、昔は格鉾町が生稚児を選出していました。
RAPT | 京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
牛頭天王は薬師如来が姿を現したものとされているようです。
信濃国分寺八日堂縁日(毎年1月8日)で頒布される「蘇民将来符」のいわれが記されている。この「祭文」の写しは全国で4通確認されているが、文明12(1480)年に書写された国分寺のものが最古と判明した。
牛頭天王は薬師如来が姿を現したものとされ、厄病除けの神として信仰され、やがて息災延命、七難即滅などの諸々の御利益が付け加わりながら信仰されてきた。
薬師如来は仏教で信仰されている仏ですね。
日本人は無宗教と言われながらも、神社仏閣は崇高な所であり、お詣りをすると御利益があるとほとんどの人が思っているかと思います。
しかし、上に書いたとおり、現在も日本で崇められているのは午頭天王やスサノオ、天照大神のような人間の生贄を要求する神だということです。
これらはすべてRAPTさんが解いてくださったことですが、生贄の場となっていた巨石の組まれ方はどう見ても神社の鳥居にそっくりです。
RAPT | 古代ケルトのドルメンも日本の神社も同じドルイド教の生け贄儀式の祭儀場でした。
鳥居の形をしたドルメンの真ん中に丸い穴が空いているものがいくつも見受けられます。
(こちら)のはやしひろしさんの動画で、神道の神具である【三方(三宝)】はここからきているのではと推測されています。
【三方(三宝)】とは、神棚へ神饌(御贄・神への供物)を乗せる台です。
そっくりですね。確かにあり得ると思います。ただ、はやしひろしさんは相変わらずレプタリアンだとか宇宙人とか聖書を間違った解釈をして伝えているので、全てを信じてはいけません。
神道の鳥居も三方も、古代のドルメンが由来の生贄の象徴に違いないと思います。
鳥居が生贄の象徴である証拠をもう一つ。
補陀落渡海といって、補堕落(彼らにとっての浄土)を目指して僧侶が船に乗せられ海に流される習わしがあったそうです。30日分の食料と灯火のための油を載せて、渡海僧が船の屋形のなかに入り、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられるそうです。生きて帰れぬ旅に行くわけです。
この船には鳥居が3基も乗せてあります。
これこそ生贄ですね。
渡海は、北風の吹き始める11月に行われた。渡海時、わずかばかりの水と食料を積み、屋形に入りこむと出入り口を釘付けにして閉じ、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送ったという。
『熊野年代記』や古文書などによると、貞観十年(868)に初めての渡海が行われたと記し、以後20数回の記録が残る。実際にはもっと多くの人々が渡海しただろうといわれる。
境内に、25名の渡海上人等の名を刻した記念碑がある。
名簿の17番目に、天正六年(1565)金光坊という名が刻されている。
井上靖の短篇小説『補陀落渡海記』にこの金光坊が描かれているが、その当時、寺の住職は61歳の11月になれば補陀落渡海に出帆するという慣わしになっていたが、金光坊は渡海に疑念を持ち、決意が定まらぬままに周囲から追い詰められて渡海を迎えた。いざ出帆すると孤独と恐怖に襲われ、もともと納得の船出ではなかったから、釘板をはずし舟から脱出して逃れようとした。ところがそれを見つけた民衆は、再び金光坊を舟の中に押し込めて固く閉ざし、浄土へと送った。
以下はたった二年前の2021年の記事です。大阪市西淀川区の野里住吉神社では、神への生け贄として少女を唐櫃にいれ、神社の池のほとりに置いてささげたという伝説があり、その人身御供の伝承を伝えていこうと書いてあります。
人身御供の伝承を今に 大阪・野里住吉神社の一夜官女祭 – 日本経済新聞
大阪市西淀川区の野里住吉神社で毎年2月に開かれてきた「一夜官女祭(いちやかんにょさい)」は、人身御供の伝承を今に伝える珍しい祭りである。神の託宣で少女を生贄(いけにえ)として唐櫃(からびつ)に入れ、神社の池のほとりに置いてささげたという伝説があり、祭りでは生贄役の官女が選ばれて神事が執り行われる。祭りの由来を遡って見えてくるのは、かつて人々を苦しめた水害だ。
これと同じような人身御供伝説は、色んな神社で言い伝えられています。
加茂神社(納田終)と人身御供 ~白羽の矢が立った村~【おおい町】
神道も古代から受け継がれた人間を生贄にする宗教なのです。
次は仏教のお墓についてです。
お墓ってストーンヘンジに似ていませんか?
3段になっている、よく見かけるこのお墓の形状は、三段墓というそうです。
ピラミッドに似ていませんか?
仏教の開祖である釈迦はインド出身でヒンドゥー教とも深い繋がりがあります。釈迦がどんな人物なのか、こちらをご覧下さい。
RAPT | やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。
このように神道も仏教も、拝まれている神は古代から人間の生贄を要求するような神なのです。しかもとても残虐な方法で虐待されるケースがほとんどです。
また、ジャニーズ喜多川の性加害の問題が連日騒がれていますが、この問題も確実に密教に由来しています。
それでも、神道や仏教が崇高だと思いますか?
以下の動画は1933年にアメリカで開催された「シカゴ万博」の「夜の部」を極秘に撮影した映像だそうですが、牛の形をした「モレク」という悪魔の像を中心に、大勢の人々が踊り狂っているのが見て取れます。
【悪魔崇拝】1933年の『シカゴ万博』では幼児を悪魔に捧げる生贄儀式が行われていた!! 『2025年大阪・関西万博』でも身寄りのない子供を引き取る“赤ちゃんエキスポスト”を設立 | RAPT理論+α
「人間の生贄」という悪習は、支配者達が今でも行っていることなのです。
なんでこんなに沢山の人々が政府が推奨するコロナワクチンで死んでいるのでしょう。3.11の東日本大震災も、地震が起きる前に建設業の株が跳ね上がっていたことや、波形図からも、人工地震だったことが分かっています。
その他の大きな事件や事故だと思われていたことも、意図的に起こされたことだったことが明らかになりました。
彼らは「神々」へ捧げるために人間を今でも生贄にしているのです。
こんな残虐なことを要求するのは「神様」ではありません。
特に日本人は本当の神様を知らないので、「昔はそんな風習があったのか」「世界にはそんな神々がいるんだ」「そんな神を信じている人がいるんだな」というくらいにしか思っていないかと思います。
「神様」という明確な概念が分かっていないのです。
私自身そうでした。ですが、RAPT理論と御言葉を読み実践している今は、それらが神ではなく「悪魔」であることをハッキリと断言できます。
次回はこの事について書いていきたいと思います。
参考記事
RAPT | 日本と古代エジプトと悪魔崇拝のつながりが一発で分かる幾つもの物的証拠。
RAPT | 世界を密かに支配するドルイド教の歴史。ドルイド教とゾロアスター教と古代エジプトと古代ギリシアと古代中国と永世中立国スイスとロスチャイルドと秦氏の奇妙なつながり。
RAPT | 古代ケルトと古代エジプトと古代日本の幾多もの文化的共通点と、日本がドルイド教から誕生したという幾つもの証拠。
RAPT | 日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。
RAPT | 古代ケルトのドルメンも日本の神社も同じドルイド教の生け贄儀式の祭儀場でした。
RAPT | 日本の古墳も生け贄儀式を行うためのドルイド教の祭儀場でした。
RAPT | マヤ・アステカ・インカ文明で行われた残酷な生贄儀式が、すべて日本に起源があるという明確な証拠。
太陽のピラミッド 高さ65m、基底部216x226mでその総体積はエジプトのピラミッドをも凌駕する。 太陽が天頂点に達した時にちょうどピラミッドの真上に位置する日が年に2回訪れる。まるで 後光を抱くかのごとく輝いて見えると云う。AD1年頃に完成したと考えられており、その 平坦な頂上部には神殿が建っていたとされる。ピラミッド底辺は平行して走る 「死者の通り(La Calle de los Muertos)」と共に、正確に北より15度25分東に傾いており、 北斗七星の中で最も明るいアルファ星の方角を指し示していると云われている。
古代のクレータ島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる。
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