釈迦について、文献によって書かれていることはまちまちです。寺が載せている釈迦の生涯の言い伝えを読むと、釈迦がものすごく善人に書かれています。寺は檀家さんを集めたいですし、仏教を広めたいので当たり前なのですが。それを見ると、釈迦は本当は善人だったのか?と一瞬疑ってしまいそうでした。
しかし、私はその時滅多にない頭痛がしました。
うかつに信じてはいけないと思い、今回はインドやヒンドゥー教との関係など、知らないことが沢山ありましたので、調べながら、釈迦や仏教にまつわる矛盾を解いて導き出したことを書いていきたいと思います。
釈迦
紀元前5〜6世紀頃、現在のインドとネパールの国境付近にあった小国であるルンビニで生まれる。
シャーキャ族の国王である父・シュッドーダナと母・マーヤーの間に誕生。
釈迦が生まれたインドでは、当時からカースト制度で身分が縛られていました。
このカースト制度は「インド」特有のというより、インドに入植してきた「アーリア人」が作った制度のようです。
歴史を少し説明します。
1500年前、アーリア人が原住地のコーカサス地方からイラン、アフガニスタンを経て、インドの西北、インダス川流域のパンジャーブ地方に入り、さらにガンジス川流域に広がったと言われています。
侵略してきたアーリア人達は、先住民であるドラヴィダ人を征服する過程で「ヴァラモン教」をつくり、自分たちが優位になるように、身分制度の「ヴァルナ」というカースト制度をつくりました。
彼らは身分の一番高いバラモン(司祭)となり、下の階級の人々を支配していきます。
アーリア人は、先住民を奴隷や不可触民という下位カーストにしました。下位カーストにされた人達は長い間職業などあらゆる面において差別の対象になってきました。
このカースト制度は、「輪廻転生」の概念から作られたそうです。
輪廻転生はないことはこちらに書かれています。
RAPT | 輪廻転生はあるのか。または「肉体」と「霊体」の仕組みについて。
RAPT | 「輪廻転生」の概念が悪魔から生まれた可能性について。または真に悟りを開いた人とはどんな人なのかについて。
このように、輪廻転生は本来上位階級以外の人にとっては苦しみが付きまとう概念でした。
一般的な言い伝えによりますと、釈迦はカーストの中でも「クシャトリヤ」王統に属すると言われていて、最上位階級である「バラモン」に反発する形で仏教を作っていったと言われています。
当時、実際に経済が発展してくると、司祭であるバラモンよりも、クシャトリヤやヴァイシャのような商人が台頭する時代になり、バラモン教から出たヒンドゥー教の宗教や祭祀中心のあり方が疎まれるようになってきました。
そんな中で現れたのが釈迦だったようです。
「現世」は「前世」によって定められているというバラモン教やヒンドゥー教の教理ではどんなに生まれ変わっても永遠に定められた運命から抜け出せません。
そこで釈迦がカースト制度を批判し、『自分の行いによって自分の運命を変えることができる』として仏教を広めていったそうです。
ここまでの流れを読むと、釈迦がしたことはとても聖人らしく、当時の人々の救いを成した人と言われるのも当然かと思います。
しかし、ここから矛盾点を挙げていきたいと思います。
まず1.について
上記の通り、釈迦は苦しみを与える輪廻やカースト制度に反逆する形で、身分によらない解脱を解く仏教を広めたわけです。
そしてこの考えは、それまでインドで主流であったバラモンの教えに反するものであった。バラモンの哲学においては「アートマン(我)」という永遠不滅の魂が存在し、それによって輪廻転生が起こっている。ようするにこの「我」があるので、生前の行いだとか、死後の運命が決定されるという世界観が作られ、ヴァルナのような苦しい階級が生み出されているとされた。しかし仏教においてはこの「我」は否定される。輪廻の苦しみから解脱するためには、真理に至る必要があるが、仮にそういった真理に至った我があるのならば、その魂は生まれ変わる事がない。つまり、人にも虫にも牛にもならないので、これでは新しく生まれてくる生命を説明できない。真理に至る我がレアケースだからとすると、今度は至れないという事は人は何らかの業をまた積んでしまうわけで、結局苦しみから逃れる事は出来ないという事になる。生前だ、死後だといっても結局生きている人の苦しみを救えるわけではない。我なんていう目に見えないものではこの世界を説明できない。この世は「無我」である。こういった「アンチバラモン」の思想こそ仏教の真の姿である。
こういった側面を持った仏教はバラモンに懐疑的な人々に支持を集めた。当時のインドでは、クシャトリヤやヴァイシャが力をつけた事により、従来のバラモンを否定する様々な思想家が生まれていた。例えばジャイナ教もそうだ。これは不殺をテーマにした宗教で、動物を神に捧げるバラモンのヴェーダ祭式に反発して興ったものである。
それなのにそのカースト制を生み出した神であるブラフマーから釈迦の教えを広めるように説得したとあります。
梵天勧請
成道した直後の釈迦は当初、仏法の説明は甚だ難しく、衆生に教えを説いても理解されず徒労に終わるだろうと、教えを説くことをためらったとされる。聖求経をはじめとする初期仏典には、沈黙を決した釈尊をサハンパティ梵天(brahmã sahampati)が説得したという伝説(梵天勧請)が記されている。
梵天とはブラフマーのことです。
矛盾してますよね。
しかも解脱はできるとしても、釈迦も輪廻はあるとし、「六道」という仏教版「輪廻」を作り出しています。
先程もリンクを載せましたが、輪廻転生はありません。
次に2ですが、
実は釈迦はクシャトリアの地位ではなく、バラモンだったという説です。
当時の時代背景や地域性から推定してみても、バラモン教と融合してから、バラモン教の差別化で仏教僧団が当時の人々に影響を与えて拡大していったと推測して解説されています。
1.ベナレス(最初の説法、初転法輪の場所)はバラモン教の霊場であった。
2.初転法輪した五人の比丘もバラモン教徒であった。
3.ブッダも最古層の教典「ダンマパダ」ではバラモンと呼ばれていた。
4.ブッダ以外の沙門達(アージヴィカ教、ジャイナ教)も活躍していてバラモンと呼ばれていた。
など、
当時理想的な修行者のことをバラモンと呼んでいて、昔の法を守っていた聖者のバラモンたちのことはブッダも称賛しているが、今のバラモンは祭事中心で法を守っていないのでブッダは批判していることも原始仏典にはでてきています。
《参考》 春秋社 原始仏教の思想Ⅰ 中村元先生
ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族(英語版)(巴: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある。
名のシッダールタは、古い仏典に言及がなく意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられたもので本名ではない、という説がある
ゴータマの姓を持つ一族はバラモンであるらしいです。
3.さらに、釈迦の一族は太陽神の末裔だという説も。
日種または日種族(にっしゅ、サンスクリット語: सूर्यवंश sūryavaṃśa スーリヤ・ヴァンシャ)とは、インドの王族である。伝説のアヨーディヤー王イクシュヴァーク(甘蔗王)を始祖とする。プラーナ文献において、古代インドの王家はほとんどが日種と月種のいずれかの系統に整理されたプラーナ文献によれば、初代アヨーディヤー王イクシュヴァークは太陽神ヴィヴァスヴァットの孫にあたり、その子孫は太陽の一族すなわち日種と呼ばれる。
略
釈迦族も日種と伝えられる。
(3) 世界四大文明の一つのインダス文明の始まりが、約四千五百年前です。
(釈迦は、およそ二千 五百年前に生まれる)。
インドとパキスタンに、またがるインダス川の広大な河谷にひらけた文明 です。
アーリア人は、西アジアやヨーロッパの諸民族と同じ系統の民族(インド・ヨーロッパ語族) です。
なかでも西アジアの民族と関係が近く、「イラン」の語源も「アーリア」です。
さて、その 大河を「シンドウー(大洋)」とよび、これが「インダス」や「インド」の語源となりました。イ ンダスの人々は「卍」お図形を護符としていた。
太陽と光を表すもので、のちに仏教のシンボルと もなり、これを「スヴァスティカ」と呼び、勝利の太陽神シンボルとしたのがアーリア人で、初期 の経典で釈迦はよく「太陽の末裔(まつえい)」と呼ばれ、漢字では「日種(にっしゅ)」とあら わす。
太陽を神格化するのは農耕民の伝統であって、遊牧民社会では月が神聖なものとされている。
このことから、シャカ族は遊牧民のアーリア人とは系統が異なるともいえる。
しかし、アーリアン 人も農耕民として定着し次第に太陽神の地位が高まった。
以上は、「ブッダ真理(ダルマ)に生きた聖者」一九九九年四月・PHP研究所発行、大角修先 生(一九四九年生まれ、東北大学卒)の著書による。
このように、釈迦の属するシャカ族は、日種とよばれる太陽神の末裔であると書かれています。
太陽神は、淫乱かつ人間の生贄を要求する残虐な神であり、それは聖書に書かれている神様の掟と反逆する悪魔だったと書きました。
4.ですが、仏教はその後どうなっていったかというと、まさに淫乱で残虐な思想の【密教】が導入されていきました。
後期仏教はヒンドゥー教の影響を得ているとご紹介しましたが、より正確には仏教が衰退しかけヒンドゥー教が隆盛した際、生き残りを掛けて教義の融合を行なったようです。更にそれでも仏教はインドにおいては消滅し、唯一チベットなどで密教として残ったのだということです。
5世紀になって、インドで生まれた仏教は、ヒンドゥー教の台頭で衰退の一途をたどっていた。そこで、ヒンドゥー教に対抗しうる術として見出されたのがヨーガだった。悟りを開くには修行すべきという密教的な教えに仏教は進んでいった。だが、仏教は、ヒンドゥー教に対して優位に立つことはできなかった。
そこで、仏教(密教)徒は、他宗教では絶対に手をつけていなかった「性」に手をつけた。性行為は、人間にとって一番根源的であり、誰しも避けては通れないものであるにもかかわらず、世界中の宗教が忌避してきた。誰の目にも俗中の俗と映る性行為。その性行為のみが、人間を、とりわけ末世の人間を解脱という聖の極みへとジャンプアップさせる唯一の方法だと、密教は説いた。
仏教が導入した策も、やはり、戒律との葛藤を秘めていた。当時の密教は、呪いや黒魔術的・オカルト的要素まで取り込んでおり、問題が多かった。結局、インド仏教界は、この問題を解決する間もないまま、1203年に西から侵攻してきたイスラム教徒に絶滅させられてしまった。この結果、性の問題は、インド仏教を引き継いだチベット仏教へ引き継がれていった。
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後期仏教=密教は人気取りのために、性や呪術を取り入れたようですね。(釈迦が禁じたことです。)
中でも末期密教がそのままチベットに受け入れられたようで、最も毒性が強いようです。勿論、日本の密教である中期密教もその毒素はきっちり取り入れられていますけどね。
5.仏教は禁欲のはずでしたが、180度変わってしまいました。
これは悪魔崇拝者たちがよくやる手口であり、完全な矛盾です。政治家が選挙で立派なマニフェストを掲げていながらいざ当選すると果たさず、果たす気も無いのと同じで、国民が願う政治ではなく、結局自分たちの都合の良いように行うためなのですね。
また、彼らは噓ばかりついていて矛盾を矛盾だと気付かない風潮にしています。
インドといえばインド独立の父としてマハトマ・ガンジーが有名ですが、彼は「非暴力、不服従」、また「禁欲主義」を貫いた聖人と学校で習うかと思います。しかし実のところガンジーは、ブラフマーチャリヤの実験だと称して裸の女性を何人もはべらせていたと弟子達の暴露されています。
RAPT×読者対談〈第110弾〉インドとガンジーと神智学協会。インド独立運動もやはり源平合戦だった。
これが彼らの本性なのです。
つまり、仏教や釈迦についても
当時カースト制度がバラモン以外の人達から受け入れられなくなったアーリア人の支配階級の人達が、釈迦を送り込んでバラモンに反発する善人に仕立て上げた。その新たな宗教にカースト制度を無くすことで人を取り込み、その後、悪魔思想である密教を広める土台を作った。ということではないでしょうか。
密教では、釈迦は大日如来が生み出した化身と言われているそうです。
一般に仏教の開祖とされる歴史上の釈迦は、密教では(マンダラでも)大日如来が衆生済度のために生み出した化身とされる。
大日如来とは太陽神のことです。先程も書きましたが、太陽神は悪魔でしたね。
イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
6.釈迦の一族であるシャカ族は、ギリシャ語では、「サカ族」のことであり、中央アジアの黒海北部を拠点とした遊牧系騎馬民族「スキタイ」のことだともいわれています。
ネパールでは釈迦を「シャーキャ」といい、西方のガンダーラでは「サキャ」、イランに行くと「サカ」と発音する。だが、イランと同じインド・ヨーロッパ語であるギリシャ語では、「サカ族」のことを「スキタイ」と呼ぶのである。この「スキタイ」という名称は、もともとは中央アジアの黒海北部の地名を指したが、そこを拠点とした遊牧系騎馬民族を「スキタイ」と呼んだのが始まりとされるのである。「スキタイ」はアーリア系とされてはいるが、実のところ様々な民族の集合体であった。なぜなら、騎馬民族というのは民族・人種にはこだわりがなく、領土を拡大するにあたって、圧倒的な機動力と武力をもって他国を侵略、冨を略奪する。そして抵抗するものは皆殺しにし、従えば配下へと組み込んだ。中でも女性は「戦利品」として拉致され、その結果として「混血」が進み、その文化も国際色豊かなものになっていった。
年代的にも、釈迦の誕生は紀元前5~6世紀だと言われていますが、紀元前8~6世紀にかけて、イスラエルで神様に反逆したイスラエル民族が神様から裁かれて国が北イスラエルと南ユダに分裂するという出来事がありました。その後イスラエルはアッシリアやバビロニアによって崩壊し、国が無くなったイスラエル部族がスキタイと同化しながら東へ向かったという説があります。
アジア大陸を席捲するスキタイの出現
秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士
(クル・オバ遺跡より)イスラエルが国家を失った紀元前8世紀から7世紀にかけて、イスラエルからタガーマ・ハランを通り、その北方にある黒海とカスピ海の間を抜けた今日の南ウクライナ周辺に、スキタイと呼ばれる広大な遊牧騎馬国家が形成されたのは周知の事実です。スキタイが歴史に台頭したタイミングからしても、行方がわからなくなった北イスラエル王国の部族がスキタイに同化して、それが騎馬民族と化し、長い年月をかけて徐々に東方に向けて拠点を広げていったと考えても不思議ではありません。
スキタイは南ユダ王国が滅びた前6世紀には北の草原地帯からコーカサス山脈の東側を抜けてアジアに侵入し、その領地を拡大しつつメディア軍を破り、東方のアジア圏を席捲するまで至りました。また、前4世紀には「匈奴」と呼ばれる騎馬民族が東方のモンゴルで勢力を伸ばしながら、遊牧国家を建設しています。匈奴のルーツは、西アジアの方面から移住してきた高度な文明を持つ民でした。その背景にはイスラエルの民族大移動があったと想定することにより、アジア大陸の歴史の流れが見えてきます。
ところがスキタイは、いつしかアジア大陸から忽然と姿を消します。それは騎馬民族が東漸するにつれて、各地で現地の住民に同化し、新たな騎馬民族の群れを形成するも、国家としては徐々に弱体化したことが一因と考えられます。そして東方へと移動し続けた結果、遊牧国家を形成してきた多くの民は、いつしか太平洋岸周辺に拠点を持つ東夷とも同化していくことになったと推測されるのです。東夷は中国東方に拠点を持つ異民族の集団であり、それが後に朝鮮、ならびに日本民族を指す名称にもなります。
彼らは悪魔教を広げながら、確実に中国や日本に来ていますので大いにあり得ると思います。
ここまで見ても、仏教が悪魔的な思想が受け継がれている宗教だということがお分かりかと思います。
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