ジャニーズ事務所の内部で起きてきたジャニー喜多川による未成年所属タレントへの性加害が問題視されるようになりました。
この件は、ジャニー喜多川がただのホモで小児性愛者というだけではなく、日本で当たり前のように根付いてしまっている間違ったある宗教観に起因しています。
それは【仏教】です。
神道も同じです。実は世界で信仰されている宗教もルーツは同じで、表には出ていないだけで、淫乱でかつ生け贄を要する殺人的な思想が根底にあります。
それは昔だけではなく、今にも確実に受け継がれているのです。
ジャニー喜多川だけでなく、至る所で支配者達がしていることなのです。
仏教や神道が崇高な教えだと、ほとんどの人が思っていると思います。仏壇に手を合わせたり、神社にお詣りしたりすることが御利益があることだと思っているかと思います。
しかし、神道や仏教の本当のルーツと、決してそれらが正しい教えではないことをはっきりお伝えしていきますね。
ジャニー喜多川の父は高野山真言宗の僧侶です。
高野山と言えば、真言宗ですね。真言宗は空海が【密教】の教えを熱心に広めてきたとされています。
真言宗=密教の教えは常識を逸した性的な教理であり、少年との性行為を合法化している非人道的な宗教なのです。
このことと無関係であるわけがありません。
その密教の教理を以下、抜粋していきます。
【 密教・仏教 】の異常な教理
●RAPT | 〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。より
妙適淸淨句是菩薩位 – 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 – 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 – 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 – 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 – 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 – 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位 – 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 – 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位 – 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位 – ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位 – 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位 – 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位 – 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位 – 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位 – 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位 – この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位 – 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
●ピクシブ百科事典より
■日本仏教世界の暗部
灌頂(かんじょう)とは仏教用語である。
古代インド文明(古代インドはブッダの生まれた場所であり、仏教発祥地である。)のサンスクリットでアビシェーカabhiṣekaまたはアビシェーチャナabhiṣecanaという。
もともとはインド世界での大王や立太子が即位する時の『洗礼式』で(清めの儀式)四海(天下ノ意)の水を頭頂に注ぎ四海世界人(全世界の支配者すなわち皇帝)となぞらえられたのだそうだ。
お地蔵さまなどに水を描けるような感じであると思われる。
その潅頂の儀式はインド仏教に伝わり、徳の高い僧侶(高僧)や聖人などの洗礼式となった。大乗仏教では最後の修行を終えた菩薩(仏陀)が悟りを開いて仏になるとき、諸仏から智水の灌頂を受けて成仏するものとされる。
しかしここから話がおかしくなってくる。
日本の仏教ももちろん灌頂儀式はひろまった・・
しかしそのうちに天台宗や真言宗などでは剃髪しない少年修行僧(7〜18歳)の稚児との慰め(性行為)を合法的に行うため儀式として仕立てたのである・・。
どのように合法的かというと、日本の仏教の戒律では生身の人間との不邪淫戒は禁じられているが、この稚児(少年)に灌頂の儀式をするということによって天台宗や真言宗では観音菩薩の化神となってしまい、生身の人間ではなく『この世の無い至高の者』となるので信仰の対象としての稚児を崇拝しそれと交わることはかまわないということらしい・・・。
皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」
頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」
芸道などの才能が見込まれて雇われたり僧侶に売られてきた「下稚児」
この中で稚児灌頂の対象になるのは中と下である。
結局この習慣は日本仏教世界に秘密裏のうちに広がりまくり、美少年の稚児ばかり目立つようになったという・・・。
●RAPT | 〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。より
----------------(転載ここから)
内容を特徴付ける主な言葉・概念を挙げると、以下のようなものがある。
「五欲徳」(色・声・香・味・触)
「五肉」(人肉・牛肉・犬肉・象肉・馬肉)
「五甘露」(糞・尿・精液・経血・肉体)
「大印」(女性パートナー)
こういった従来の顕教、あるいは世俗の社会倫理では忌避されてきたものを、真理の反映の過程として取り上げ、三昧の上においてはむしろ徹底的に享受・摂取することが、(その優越性・究極性を強調されつつ、)全面的に象徴化がなされ、それを肯定し推奨されて、現実の如く具体的に観想することが必要とされる。
ちなみに、「大印」(女性パートナー)は、言うまでもなく、「愛欲」(性理的瑜伽、二根交会)の象徴として文中に現れるが、その尊様の指定は、
十二歳の乙女(第七分、第十五分)
十六歳の乙女(第四分、第七分、第十六分)
二十五歳の乙女(第八分)
といった具合にバラつきがある。
----------------(転載ここまで)
チベット仏教のことをごく普通の仏教だと思っていた人は、この部分を読んでも意味が分からないでしょう。正直なところ、私もよく分かりませんでした。常識を疑うような内容だからです。
これは間違いなく仏教ではありません。まさしく「悪魔崇拝」そのものです。
この「秘密集会タントラ」の解説書がアマゾンに売っていますが、そのレビューにこの「秘密集会タントラ」のおおよその解説が書かれたレビューがありました。
○秘密集会タントラ和訳
このレビューで、おおよそこの「秘密集会タントラ」の意図するところが分かります。
----------------(転載ここから)
五戒の破壊、宗教の規定した善悪の破壊、つまり″一切清浄″が明記された最初の経典である。
仏教、儒教、キリスト経などの宗教が善悪を規定しなくてはならない背景、それが成立する時代には、絶対権力者による無秩序な残忍な処刑の横行があり、それにより民衆の反発を受けて権力者自体も殺されるという悪循環があった。
そして″五戒″(殺さない、姦通しない、盗まない、嘘をつかない、酒を飲まない)を守る事は、程よく国を納める事や民の平安を築くために必要であった。
そもそも″仏陀の悟り″とは、一切平等と縁起であり、人間が地球の循環(食事と排泄、呼吸)が生きる目的であり、地球循環を支える他の生物と変わらない、そして人間がいなくても変わりがいる存在、『万人万物の働きは、平等で地球循環を支えるために生きている』という″気づき″である。これは、地球が惑星である事も明らかでない時代には画期的な発見で、誰もが理解できる時代ではなかった。
秘密集会タントラは、仏教成立から千年以上経過して成立した。成立時期とは、時代背景も価値観も全く変わった。
すると今度は、″五戒″を基礎とし、様々な戒律が規定され、宗教的な善悪がはっきりとした反面、善悪が固定概念を産み、″善人″と″悪人″という差別を産み、″一切平等″という″悟り″から離れてしまう事になった。
新しい時代の″悟り″のために″宗教的な善悪を破壊する目的で″秘密集会タントラ″は成立する。
そして、″悟り″のための手段が″五甘露(人糞、人尿、精液、経血、人肉)を食す事″である。これは、錬金術とも共通する部分で、賢者の石は人糞の塩と人尿の塩で精製できるとされている。
″五甘露を食す″事は、人間の本能による最大の嫌悪であり、最大のタブーである。その行為は、根強く意識に埋め込まれた宗教的善悪の固定観念すらもいとも簡単に破壊してしまう。
これの経典は、密教の入り口にしか過ぎない。何故なら、自然には善悪は存在しない。つまり、″五戒″は本能ではなく、単なる刷り込みに過ぎない。自然の善悪感は、″欲″と″畏怖″である。
本能としての善悪の破壊こそ、次なるステージである。それが母タントラ経典へと続く。本能を破壊する事は無限の創造を可能にする。神を超えるとでもいおうか。
東洋では、時輪タントラ成立を最後に密教は滅びる。しかし、西洋でタントラは錬金術から科学へと発展し、現在に至る。
西洋のタントラは、医療に集約され、それは神を超える思想を受け継ぐ。つまり、不老不死を実現させようと日々進歩している。
----------------(転載ここまで)
一言で言えば、これまでの善悪の観念を壊すために、徹底的に「悪」を行って悟りを開きましょう、というわけです。
で、本能的欲求をむさぼり、「糞・尿・精液・経血・肉体」を飲食し、さらには十二歳と十六歳と二十五歳の女性とセックスをしなさい、というわけです。
ローマ法王やエリザベス女王もまさにこのような気違い沙汰を行って逮捕され、裁判にかけられたわけですが、まさにそれを地で行くような教理になっています。
○現ローマ法王フランシスコに幼児虐待および人身売買のかどで有罪判決。
で、このようなチベット仏教の内容が知られて、バッシングされることを恐れてか、これらの教えは実際に行われているわけではなく、あくまで「想念」上で実践しているだけと、あれこれ言い訳がましく書かれた記事がネットには見受けられます。
しかし、もちろんそれらの記事はすぺて嘘でしょうね。というのも、「タントラ」の中には、
「あらゆる肉が手に入らねば、あらゆる肉を観想によって生ずべし。」
と書かれてあるからです。つまり、「実際の肉が手に入らない場合のみ、想像で行いなさい」というわけです。ですから、彼らが実際にこれらのことを実践していることは疑うまでもない事実なのです。
さらにこの「タントラ」には以下のようなとんでもないことが書かれてあります。
----------------(転載ここから)
貪・瞋・痴に満ちた行者は、無上なる最高の乗において、(「転識得智」によって三つの根本煩悩さえも仏の智慧に変じて)最勝の悉地を成就する
旃陀羅・笛作り等や、殺生の利益をひたすら考えている者たちは、無上なる大乗の中でも、最上の乗において成就をなしとげる
無間業(地獄に堕ちる悪行)、大罪を犯した者さえもまた、大乗の大海の中でも優れたこの仏乗において成就する
殺生を生業とする人たち、好んで嘘を言う人たち、他人の財物に執着する人たち、常に愛欲に溺れる人たちは、本当のところ、成就にふさわしい人たちである
母・妹・娘に愛欲をおこす行者は、大乗の中でも最上なる法の中で、広大な悉地を得る
これらは清浄な法性であり、諸仏の心髄中の心髄である法の義から生じたものであり、とりもなおさず菩薩行の句である
----------------(転載ここまで)
要するに、人がどんなに悪事を行っても、というか、悪事を行えば行うほど、素晴らしい極楽浄土に行くことができる、というわけです。
まあ、彼らが言うところの極楽浄土とは「地獄」のことですから、真実といえば真実ではありますが……。こんなことばかりしていたら、間違いなく極上の「地獄」に行けるでしょうから。
さらには……。
----------------(転載ここから)
仏曼荼羅と阿閦金剛を観想し、一切の衆生を殺す
輪曼荼羅と毘盧遮那・一切諸仏を観想し、一切の財物を奪う
蓮華曼荼羅と無量光・一切諸仏を観想し、一切の妃を瑜伽(ニ根交会)で享受する
仏曼荼羅と不空金剛・一切諸仏を観想し、一切の勝者(の拠り所となるもの)を欺く
三昧耶曼荼羅と宝幢を観想し、粗暴な言葉を使う
----------------(転載ここまで)
人を殺し、人から物を奪い、セックスをし、人を騙し、誹謗中傷する。こういった行いが推奨されているわけですね。
さらにはこんなことまで書かれてあります。
----------------(転載ここから)
チベット密教の灌頂(かんじょう)には、以下の4つがある。
瓶灌頂(びょうかんじょう) – 日本の真言密教と類似のもの。守護尊を決める「投華得仏」と、金剛杵・金剛鈴・金剛名授与など。
秘密灌頂(ひみつかんじょう) – 師に「大印」(女性パートナー(主に美しい十六歳の処女))を捧げ、両者の「性的ヨーガ」によって生じた精液・愛液混合物を、自身(弟子)の口内に「菩提心」として投入する。
般若智灌頂(はんにゃちかんじょう) – 自身(弟子)が「大印」(女性パートナー)と「性的ヨーガ」を行う。(体内に投入された「菩提心」の放出と看做される)射精は禁じられ、「菩提心」を身体の各チャクラに適宜とどめて、歓喜を味わう。
語灌頂 (ごかんじょう) - 「言葉の潅頂」、または「記号の潅頂」とも訳される。師僧が儀式の中で弟子に象徴性そのものを直接与える。
(※「大印」(女性パートナー)については、インド及び初期のチベットにおいては実際に性行為が行われていたらしいが、ツォンカパ以降のゲルク派では、「性欲を完全に克服できる段階に達しているなら、実際の女性を相手に実践して構わないが、そうでないなら、あくまでも観想でのみに留めるべきであり、その原則を侵すなら、堕地獄の苦行が待っている」という扱いだという。)
なお、「生起次第」に進むには、1の灌頂が必須とされ、「究竟次第」に進んだり、密教指導者になるためには、2~4の灌頂が必須とされる。
----------------(転載ここまで)
気が狂っているとしか思えません。
指導者に美しい16歳の処女を捧げてセックスをさせ、その指導者の精液と女性の愛液を「菩提心」として飲む……。
女性とセックスして、射精せずに歓喜を味わう……。
指導者が弟子に「象徴性」を与える、つまりは性交する……。
とにかく宗教の教典とは思えないような非常識なことばかり書かれてあります。
で、こういった行為も「性欲を完全に克服できる段階に達していない」人は、すべて想念でのみ行わなければならないし、そうしないと地獄に堕ちると書かれてあるわけですが、「性欲を完全に克服できる段階に達している」人はこれらのことを実際に行うべし、というわけです。
で、もちろん、指導者はすでにその境地に達している(ということになっている)ので、これらのことを実際に行っているわけでしょう。そうやって快楽の限りを貪るわけです。まさに悪魔そのものです。
実際にオウム真理教の麻原彰晃は何人ものを女性を自分のまわりにはべらせていたとして大きな問題になりました。(オウム真理教は、チベット密教の「左道」と呼ばれるものです。)
ウィキペディアにはこの他にも色々なことが書かれてありますが、もうこれで十分でしょう。これ以上、書かなくても、このチベット仏教の「ゲルク派」がいかに気の狂った宗教であるかが分かったはずです。
で、このチベット密教を日本に伝えたのが「空海」や「最澄」なのですが、日本ではこの「密教」の本質についてほとんど語られることがなく、ひた隠しにされてきました。今でもひた隠しにされています。
「空海」や「最澄」が伝えたのは我々が考えるような「善良」な宗教ではありません。単なる「悪魔教」です。
一応、「空海」の場合は、ボランティアなどの慈善事業にもかなり力を入れたため、民衆から多大な支持を受けましたが、これもまた逆から言うと、悪魔崇拝者とそっくり瓜二つです。
彼らはいつも表向きは慈善事業を行って民衆からの支持をとりつけ、その実、陰ではこっそりと悪事の限りを尽くしてきましたから。
もっとも、現代ではもう既に「密教」は衰退していて、日本人は誰もこんな教義は実践していないということになっていますが、このブログの読者の皆さんならそれが嘘であることがお分かりいただけるかと思います。
ただし、かつての天皇家がこのチベット密教を行って、悪事の限りを尽くしていた、という記事はいくつか見付かりました。
----------------(以下、空海のタントラ「仏教」とチベットより転載)
○第1に、チベット密教には様々な派が有ること。その中でダライ・ラマの属するゲルク派はまともな方だと言われている。(註:これでもまともだと言うのなら、他の宗派はどんなにひどいのでしょうか。)
つまりこの派は、密教修業の前に顕教の修行をみっちりと行う。相当な人格が出来てから性的ヨーガを行うので、性欲は既に克服した僧が多いと言われている(本当?)。
○第2に、日本真言宗でチベット密教張りの性的ヨーガを行い、SEXと殺人を大々的に行った「立川流」と言う派は、正統的なものとしては既に消滅していることだ。時々、「オウム真理教」のような派が発生するが、それは飽く迄も傍流である。
「立川流」とは:
現在の東京都立川市と関係が有る。左大臣の源俊房の子であり、堀河天皇の生母(白河天皇の中宮の賢子)の従兄弟であった仁寛阿闍梨(生年不詳-1114;「阿闍梨」は真言僧の最高位;後三条天皇の皇子の輔仁親王の護持僧でもあった)は、無実の罪を着せられて永久元年(1113年)、静岡県伊豆に流された。
ここで立川市出身の陰陽師と出会い、真言宗「立川流」を創始したと言われている。
これを大成したとされるのが、「建武の中興」で有名な後醍醐天皇の側近中の側近であった文観(もんかん;1278-1357)である。文観は「立川流」の奥義を後醍醐天皇にも伝えたとされる。
つまり、後醍醐天皇自身が、「立川流」真言密教の行者であった。彼等タントラの行者の行った「建武の中興」とその後の約50年間の「南北朝動乱」がどれ程無意味な戦乱で日本国民を苦しめたかを考えれば、タントラの恐ろしさは身にしみる。
大変申し訳ないことだが、後醍醐天皇は日本国史上最悪の「悪王」である。彼らの行なったことは、存在意義を失った古代貴族の世に時代を逆行させるため、自分達の贅沢三昧を復活させるため、無意味に武士同士を戦わせたことだけだ(「太平記」参照)。
つまり、後醍醐天皇や文観は室町幕府によって敗北させられた。だから「立川流」は滅びたのだ。彼らが勝っていたら、日本真言宗はチベット密教と完全に同一になっていただろう。「立川流」が敗北したためその後、真言宗の主流は常に、自分達と「立川流」の違いを際立たせなければならなかった。サバイバルの道がそれしかなかったのである。
一方、チベットでは「無上ヨーガ・タントラ」勢力が武力抗争を勝ち抜いた。だから、その後の歴史の進行がストップしてしまい、何の進歩もない・凍りついたような中世社会が数百年に渡り持続することになったのだ。
----------------(転載ここまで)
チベット仏教(密教)は、ヨガやスピリチュアルやロハスなどの思想の元になっている宗教です。
オウム真理教が異常なカルト宗教だということは、誰もがご存じだと思いますが、麻原彰晃はチベット密教の教えを元にダーキニー(ヒンドゥー教の荼枳尼天)という女をはべらせ、性欲を満たし、ヨガらしき事を行って人殺しをしていました。
麻原と仲の良かったチベット密教のダライ・ラマ14世は、最近、未成年の少年に【私の舌を吸って】と言ってキスを迫っている動画が公開されて話題になりました。
ダライ・ラマが少年に「私の舌を吸って」 遊び心からと釈明し謝罪 – BBCニュース
ダライ・ラマが残虐で猟奇的な人物であると伝えているブログもあります。
旧チベットにおけるダライ・ラマの猟奇的仏事の命令書中国中央政府による1959年の民主改革より以前、ダライ・ラマが支配するチベットではとても人間の行いとは思えない残虐で猟奇的な仏事が行われていた。これは、ダライ・ラマ誕生日の祝賀仏事に使う人間の腸、頭、血、皮を徴収する命令書である。
このような公文書が残っている以上、旧チベットが野蛮な社会であったことは疑いようのない歴史的事実である。ちなみに旧チベットを野蛮な社会ではなかったと言い張るダライ集団は、よほど都合が悪いのかこの公文書の存在を全力でスルーしている。
中央政府統治下でようやくこの残虐で猟奇的な仏事が禁止されたのは言うまでもない。
旧チベットにおけるダライ・ラマの猟奇的仏事の命令書 (is-mine.net)
チベット人は糞尿や死体を食べる汚れた民族だったと、チベットに旅した河口慧海は書き残しています。
旧チベット人は「糞を喰う餓鬼」だった
出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第三十六回 天然の曼荼羅(まんだら)廻(めぐ)り(一)」
チベットの高原地で石を集めて家を建てるということは非常に困難な事でかつ大金を要する事であるけれども、ここはプレタプリー(餓鬼(がき)の街(まち))といって、昔パンデン・アチーシャがインドから真実仏教の面目を伝えてこの国に来られた時、この地に来てプレタプリー即ち餓鬼の街という名を付けられたです。こりゃどうも余程面白い名ですが、一体チベット人は
糞(ふん)を喰(く)う餓鬼 とも謂(い)うべきもので、まあ私の見た人種、私の聞いておる人種の中ではあれくらい汚穢(おわい)な人間はないと思うです。もちろんそういう習慣は昔も今も変らず、パンデン・アチーシャが来られた時分にも今の通り汚穢な有様であったから、つまり糞を喰う(〔飲食物なき〕)餓鬼の国の街であるという名を命(つ)けられたものと見える。それをチベット人はインド語の意味を知らんものですから、パンデン・アチーシャは我々の街に誠に尊(たっと)い名を命(つ)けて下すってありがたいと言って誇って居るです。
旧チベット人は人間の死体の切れ端を麦焦しに混ぜて喰っていた
出典:河口慧海『チベット旅行記』の「第八十六回 驚くべき葬儀」
食人肉人種の子孫 さてその死骸を被(おお)うて行ったところの片布(きれ)その他の物は御坊(おんぼう)が貰います。その御坊(おんぼう)は俗人であってその仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところがなかなか暇が掛るものですから、やはりその間には麦焦(むぎこが)しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んで居る種族ですからお茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には死骸の肉や骨砕(ほねくず)や脳味噌などが沢山ついて居るけれども、一向平気なもので「さあお茶を喫(あが)れ、麦焦(むぎこが)しを喫(あが)れ」という時分には、その御坊(おんぼう)なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍って払ったきりで茶を喫(の)むです。その脳味噌や肉の端切のついて居る汚い手でじきに麦焦しの粉を引っ掴んで、自分の椀の中に入れてその手で捏(こ)ねるです。
だから自分の手について居る死骸の肉や脳味噌が麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども平気で食って居る。どうも驚かざるを得ないです。あまり遣り方が残酷でもあり不潔ですから「そんな不潔な事をせずに手を一度(いっぺん)洗ったらどうか」と私がいいましたら「そんな気の弱いことで坊主の役目が勤まるものか」とこういう挨拶。で「実はこれがうまいのだ。汚いなんて嫌わずにこうして食って遣れば仏も大いに悦ぶのだ」といってちっとも意に介しない。いかにもチベットという国は昔は羅苦叉鬼(ラクシャキ)の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、成程羅苦叉鬼の子孫たるに愧(は)じないところの人類であると思って実に驚いたです。
チベットと言えば、中国共産党によって非人道的な虐待、虐殺が行われていることでも知られていますので、このブログも中国共産党によるプロパカンダなのかもしれません。しかし、チベットは以前から「密教」という異常な教理が信仰されている国ですので、ダライ・ラマやチベット人たちがこんなに汚れた人たちになってしまうのも納得できますね。
密教はどれだけ淫乱で恐ろしい教理なのでしょうか。
ここで、ジャニー喜多川の話に戻ります。
ジャニー喜多川の父・喜多川諦道は8歳で高野山の稚児僧として出家しているようですが、「稚児」とは寺院では男色の対象になると、『岩波仏教辞典』やWikipediaにも載っています。
真言宗、天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、このような稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(ただし上稚児は対象外)。中世以降の禅林(禅宗寺院)や華厳宗などにおいても、稚児・喝食は主に男色、衆道、少年愛の対象であった。
私には不思議でしかたがないことがある。全国の寺院でなにかよいことのように催されている稚児行列だ。日本中の人権団体はなぜ抗議行動を起こさないのだろう。稚児って、児童に対する性的虐待だぜ。
『岩波仏教辞典』の「稚児」の項に、こうある。
「寺院…などに召し使われる少年を指し、これが男色の対象ともなり、近世には〈寺小姓(てらこしょう)〉と呼ばれるものもあった」
女色は禁止されているけど男色を禁止する明文はないぞ、という言いわけで児童虐待である。上田秋成『青頭巾』に描かれたのは、幼児姦の上に屍体姦だ。確かに、屍体姦禁止も明文化されてないけど。
稚児物語といって、寺院での僧侶と稚児の間の愛執をテーマに描いたものもあるようです。
稚児物語(ちごものがたり)は、中世から近世初頭にかけて書かれた物語の類型。寺院における僧侶と稚児の間の愛執をテーマに描いたものである。
中世、特に室町時代において、寺院内部では稚児を対象とした男色(稚児愛)が広く行われていたことが背景にある(ただし、男色の流行自体は武家などにもあった)。鎌倉時代の『宇治拾遺物語』などにもこうした作品が取り上げられていたが、独立した作品として本格的に取り上げられるようになったのは室町期以後である。代表的なものとして『秋夜長物語』・『あしびき』・『松帆浦物語』・『嵯峨物語』などが知られている。
【稚児】は大人である僧侶から男色の対象にされて性的虐待を受けていた歴史がありながら、今でもお寺では、稚児行列が行事として受け継がれています。こういった歴史があることを知っていただきたいです。
ジャニー喜多川の父・喜多川諦道も、稚児として幼い頃から高野山の寺で性的な事をされていたのでしょう。その暗部を受け継いだジャニー喜多川も被害に遭い、彼も男児にするようになった。
ということではないでしょうか。
祇園祭では稚児は生け贄にもされていたそうです。
皆さんは京都で行われている「祇園祭(ぎおんまつり)」をご存知でしょうか。どんな祭りなのかは知らなくても、名前ぐらいは聞いたことがあると思います。
○祇園祭 – Wikipedia
というか、名前は聞いたことがあるけれども、どんな祭りなのかは知らないという人が大半でしょう。
実はこの「祇園祭」。もともとは幼子たちを悪魔に生贄として捧げる「悪魔崇拝儀式」に他なりませんでした。
私もこのことはこれまで全く知りませんでしたが、つい先日、ある読者の方がこの情報を寄せてくださったので、私も「本当だろうか」と思って、ざっと簡単に調べてみました。
その結果、この情報が紛れもない事実であることがすぐに分かりました。
----------------(以下、こちらから転載)
祇園祭のそもそもの由来は平安時代に疫病が流行し、それを鎮めるために行われたのが始まりです。
当時は上下水道が完備されておらず、また京都は盆地であり内陸のため、湿度が高く、マラリアや天然痘、インフルエンザ等の疫病が流行り、大変な問題になっていたそうです。
(註:当時は、これらの災厄が「皇族」などの利権争いによって殺された者たちによる祟りだと考えられていました。)
当初は朝廷の命により執り行われましたが、室町時代になってからは、商工業者(町衆)の自治組織が中心となり行うようになり、今日まで続いています。
また特徴としては稚児を長刀鉾にのせ、神への生贄にして、稚児を長刀何人も殺して、疫病を鎮めようとしたことが分かっていいます。
現在山鉾の生身の稚児は1つのみで、他は人形ですが、当時はすべて生身の本物であったと考えられています。そう考えると本当は祇園祭というのは怖いですね。
(註:怖いどころじゃありません。)
当初はコンチキチンという祇園囃子はなく、江戸時代からついたそうです。祭りに参加する人はそのような事はまず知らないで参加していると思われます。
(註:知っていたら、誰もこんなお祭りに参加しないのではないでしょうか。)
----------------(転載ここまで)
恐ろしいですね。
「稚児」に焦点をあてて書きましたが、「密教」は、ゾロアスター教を受け継いでいる宗教です。
RAPT | 天皇もロスチャイルドも日本の歴代首相もみんな実はゾロアスター教徒です。
ゾロアスター教は、近親相姦を美徳とする宗教です。
以下、ゾロアスター教の習俗について記載した百科事典『デーンカルド』より抜粋したものです。
『デーンカルド』第3巻は、最近親婚を称賛する内容が長文で語られている。本文によると、最近親婚の実行には悪魔を退ける力がある。また、兄妹や姉弟の間で子供を生むことについて、その生まれた子供は親の子供であると同時に親の兄弟姉妹の子供でもあるから、4通りもの愛情が生じるという。父親と娘から子供が生まれる場合や、母親と息子から子供が生まれる場合も同様で、自分の子供によって自分の子供が作られ、自分の子供と孫が同時に兄弟姉妹でもあることは歓喜と平安を齎す(もたらす)という。また、男性が自分の母親や姉妹や娘の性器が傷付いた時に治療に従事することよりも、他人が彼女らの性器に触ることの方が醜いとも語っている[2][3]。最近親婚を称美する文言は第7巻にも見られる[8]。
古代ペルシアではゾロアスター教のこうした教えのもと、身分の区別なく最近親婚が行われていた[9]。2世紀の人物であるバルダイサンは、小アジアのペルシア人たちが最近親婚を行っていたことを観察している[10]。
『デーンカルド』では、開祖であるザラスシュトラが、ホーシュヤングとゴーザグという兄妹の直系の子孫であるという記述がある。
考えられないくらい気持ち悪いですね。
密教が異常なのであって、顕教である仏教はちゃんとした宗教じゃないかと思われるかもしれませんが、釈迦も同じです。
「釈迦」はブラフマー(梵天)という悪魔から指示されて悟りを伝えはじめたというわけで、しかもこのブラフマーはその後、なぜか「釈迦」の守護神にまでなったとのこと。
「悪魔」を守護神とする人物がまさか「聖人」であるわけがありません。
なので、「釈迦」は紛れもなく悪魔に遣わされた人物、つまり悪魔崇拝者であると断定せざるを得ません。
では、この「ブラフマー」とは何者なのかというと、昨日も言いましたように、「サナト・クマーラ」という悪魔の生みの親です。
で、この「サナト・クマーラ」はヒンズー教などに登場する神様です。
釈迦の守護神となった「ブラフマー」はヒンドゥー教の神とされている悪魔ですが、ヒンドゥー教もひどく淫乱な宗教です。
日本人は、日本に於ける中国伝来の木造仏教建築様式を「仏教建築」として解釈しているが、ネパールなどに行って観るとその考えは覆(くつがえ)される。
実は大仏殿・五重塔などの木造建築様式のルーツは、神々を擁する多神教・ヒンドゥー教が起源であり、それが中国で合習されてから日本にもたらされたものである。
ヒンドゥー教は、性典・カーマスートラを生み出した信仰である。
従って日本では一般的に「仏教」として受け取っているものに、ヒンドゥー教起源のものが多く、当初はその性に対しておおらかな教義が伝わっていても不思議は無い。
シヴァ神の寺院で安置されている御神体は、リンガとヨーニの二つの部分からなり、ヨーニは女性器の象徴、リンガは男性器の象徴で、性交した状態を示している。
シヴァ神はヒンドゥー教の三最高神の一柱で、人々は性交しているシヴァ神を女性器の内側から見ている形になっている。
これは、シヴァ神が女性と性交をして現われたのがこの世界で、それが我々の住んでいる世界と言う意味である。
そのシヴァ神が宿る石、シバリンガ(クリプトクリスタリンクォーツ)は、御神体とされ崇められてきた聖なる石で、ナルマダ川で採取される天然石である。
リンガは御神体を意味し、ヒンドゥー教に於ける男性器は神が賜(たまわ)れし「リンガ」である。
元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。
弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。
ヒンドゥー教は、シヴァ神の御神体・リンガ(男根神)を仰(あお)ぐ信仰で、人々は性交しているシヴァを女性器の内側から見ている形になっている。
性典・カーマスートラを生み出した性に対しておおらかな信仰の教義が、弘法大師(こうぼうだいし/空海)の手で伝わった。
この性に対しておおらかな信仰の教義が、陰陽修験道師の手によって全国に喧伝され、神道と集合して人身御供の儀式や男根神を祀る神社が出た。
このように日本にはびこる宗教(仏教、神道)のほとんどが悪魔を神としているので、日本人の宗教離れがどんどん加速していったわけでしょう。日本人の多くが宗教を毛嫌いしているのは、ある意味、本能的な勘が働いてのことだったというわけです。
実際、この「大国主」を神として崇めている日本人は今やほとんど誰もいません。悪魔崇拝者を別として、誰もこんなものを神と思っている人はいないはずです。
しかしながら、この「大国主」の同一神「第1クマラ」を主神とするヒンズー教は、今でもインドではそれなりにもてはやされています。
で、このヒンズー教は、知る人ぞ知る、淫乱な神々の集う宗教です。余りに淫乱なので、このページにその画像を貼るのはやめておきます。興味のある方は以下のリンクをご覧下さい。
○カジュラーホ西の寺院群総覧(1)
○カジュラーホ ミトゥナ像詳細 西の寺院群(2)
もちろん、ヒンズー教を信じている多くのインド人も、なぜこのカジュラーホの寺院にこんな淫乱な像がいくつも造られているのか、その理由を全く理解してはいないのでしょう。
なぜなら、それは「余りに奥深いので、容易に明らかにしてはいけない教え」だからです。で、ヒンズー教の指導者たち(つまり悪魔崇拝者)だけがその「余りにも奥深い教え」を人知れずコソコソと忠実に守り、実践しているわけです。
このように、仏教や密教はヒンドゥー教やゾロアスター教の異常な性的な教えが受け継がれているわけです。
「密教」の教えは、淫乱行為・児童虐待そのものですし、人殺しさえ肯定してしまう宗教なのです。そんなものを空海は日本に真言宗として広めてきました。
表向き「仏教」として崇高さを装っていますが、支配者たちはこの危険な思想を今でも受け継いでいてジャニー喜多川の件で露わになったように、陰で実際に行っているのです。
そして庶民にもあらゆる手段を使って浸透させようとしています。
空海のタントラ仏教とチベット | ritchie-iのブログ
現代の日本が腐敗する原因を作った犯人は、「密教」を広めた「空海」です。 – Kawataのブログ
起源は神様に反逆したユダヤ人
ヒンドゥー教やゾロアスター教から密教、仏教に至るまで全て似た教理で、明らかに影響を与えていることが分かりましたが、その元凶はどこなのかといえば、聖書を読み込んでこられたRAPTさんが解かれました。
イスラエルのユダヤ人です。
偶像を拝むこと、天の万象を拝むこと、性的に乱れること、汚れること、人を殺すこと、、、etc
彼らがしていることは、すべて聖書で神様が「してはいけない」と仰られていることです。
聖書を読むと分かりますが、神様が臨んだイスラエルの民達は、周辺の悪魔を拝む大国と婚姻関係を結び、混ざり合いながら密教の教理のような悪事を重ね、神様に反逆を重ねていきました。
何度神様が忠告しても反逆し続けたため、神様が怒り、イスラエルの民達は敵国であるアッシリアやバビロンに連行され、国が滅び、イスラエル人達も散り散りになりました。
その後、アッシリアやバビロンもペルシアという大国に支配されました。
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ゾロアスター教も、古代ペルシアで国教となった宗教です。
紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている。これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。サーサーン朝期には聖典『アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア・中国へも伝播していった。
なんでこの世の中にはこんなに淫乱で汚れていて殺人まで肯定するような宗教があるのか。
それは彼らの起源が神様に反逆するユダヤ人だからです。
イスラエルの民達が悪魔を拝むようになり、悪魔を拝むアッシリアやバビロンなどの敵国と混ざり合って「ユダヤ人」として日本に渡ってきたのです。
神様は偶像崇拝を禁止していますが、聖書では、イスラエルの民が金の子牛を作って拝む場面があります。それが牛頭天王となり、スサノオとなっているわけですね。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神となっています。祇園祭りで稚児を生け贄としてこの牛頭天王という神に捧げるわけですが、神であるわけがありませんね。
それでも、現在の日本の仏教はそんな汚れているわけがないと思われるかもしれません。
そんなことはありません。
葬式の時にお坊さんがお経を読みますね。そのお経は悪魔を召喚する呪文です。
RAPT | 仏教の「お経」や「真言」が悪魔を召喚するための呪文であり、仏教が悪魔教であるという確たる証拠。
RAPT | やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。
「呪」とはサンスクリット語の「マントラ」の訳語である。このことばは古い歴史をもち、仏教以前から用いられ、それは宗教的儀式に用いられる神歌一般のことをいい、マントラはその総称であった。
初期仏教団での「呪」は、呪術的色彩が強く、釈尊も一部の目的を除いて否定的だった。しかし、大乗仏教にはいると、「呪」は仏の真実を伝える霊威あることばとして、同じように考える「ダーラ二一」(陀羅尼)と並んで、徐々に高い価値を附与されるようになった。これにつれて「呪」という訳語よりも「真言」という訳語の方がより広く用いられるようになった。
ふつう、陀羅尼はより長いサンスクリット語の原音句をいい、真言(呪)はより短いものを指し、種子は一字といわれるが、陀羅尼を「呪」と訳すこともあり、混用されている。
呪とは呪文、まじないのことである。真言とは真実のことば、真実を語ることである。わたしたちがふだん使う「おまじない」とは少し二ュアンスが違く、かといって真実のことばといわれてもピンとこない。ちょうど浄土教で「 南無阿弥柁仏 」と唱えている念仏がこれと同じように「呪」であり「真言」であると考える。そこでわたしは、「呪」「真言」を「唱えことば」と言葉をつくり、解釈することにする。
大神呪の「神」は原語にはなく、漢訳したときに付け加えられたものである。「大呪」で訳そうとすれば、大いなる唱えことば、たいへんに効く唱えことばとなる。前掲の『般若心経』によると、般若には神験威カ測るべからざるものがあるところからいうとある。また、「大呪」を「大神呪」と訳すことは早くから行われ、ずっと後世まで、ほとんどの翻訳家がこの訳語に従っている。玄奘・義浄・法月・般若共利言等はそれである。異なる訳語を用いたのは、智慧輪・施護・法成であり、羅什は「大明呪」以下のみ挙げて、「大(神)呪」は挙げていない。
大明呪とは、大いなるさとりの唱えことばのことである。無上呪とは、無上の唱えことば、最高の唱えことばのことである。無等等呪とは、これに等しいものがないほどの最高の唱えことばである。
真言、般若心経、マントラ、陀羅尼、 南無阿弥柁仏は大神呪であるというわけです。
つまり、神を呪う言葉だということです。
特に、十二弟子のエリカさんの証を読ませていただいたとき、はっきりと確信しました。
私がRAPTブログに出会い、信仰を持って2年ほど経ったとき、私の親戚が亡くなり、お通夜とお葬式に行きました。
そのとき、仏教のお葬儀が本当に悪魔とサタンを呼び寄せる儀式だと、はっきりと分かる出来事が起きました。
まずはお通夜からでしたが、会場の最寄りの駅で電車を降りるとすぐ頭痛が始まりました。
少し歩いてその会場に着くと、外からでもサタンの波長が強く伝わってきました。
あまりにも波長が苦しくて、会場になかなか入れず、30分近くウロウロして、ようやく会場に入ることができました。
すると、案の定、霊的に最悪の空間でしたが、それもそのはずです。
RAPTブログでは、仏教が悪魔教であるということや、お経が悪魔を召喚させるための呪文であるということが次々と解明されていますが、まさにその通りのことがそこで起きていました。
○RAPTブログ 仏教の「お経」や「真言」が悪魔を召喚するための呪文であり、仏教が悪魔教であるという確たる証拠。
○RAPTブログ やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。
○RAPT×読者対談〈第七弾〉神道とユダヤ教と悪魔教のつながり。悪魔教が日本に伝わった経緯。
翌日のお葬儀では、もっとそのことを強く感じざるを得なくなりました。
お葬式が始まり、お坊さんがお経を唱えてわずか数秒後で、目の前に、これまで経験したことがないくらいの最強クラスのサタンがうじゃうじ出現しました。
葬式会場全体にそのサタンの塊がうごめき、私はあまりに苦しくて耐えられず、どうしていいか分からずに涙があふれてきました。
お葬式中だったので下を向きながら声を押し殺して泣きました。
悪魔崇拝への怒りと、こんなに強大なサタンを呼び出したお坊さんへの怒りが込み上げてきましたが、どうすることもできません。
なので、必死に「神様助けてください。どうかこの大量のサタンどもを追い払ってくれませんでしょうか。助けてください」と祈りました。
しかし、私の祈りでは到底追い払うことができるような量のサタンではありませんでした。
あまりにもドカンと最強クラスのサタンが急に出現し、とても苦しくなり、軽いパニックのようになってしまったのと、声を必死に堪えて泣いていたというのもあってか、お経が始まって2、3分くらいすると軽い過呼吸のような症状になってしまいました。
会場を出るわけにもいかず、トイレに行くふりをして控え室に入り、イヤホンつけてスマホの音楽を爆音で流して、なんとか必死に呼吸を落ち着かせようとしました。
霊的にも息苦しくてたまらないのを感じました。
そして、時間が経つとようやくお経も終わり、呼吸も落ち着いてきました。
葬儀が終わると、私はもう耐えられず、両親に事情を説明して、とにかく体調不良だからと言って家に帰りました。
私はこの日のこの経験を通して、悪魔やサタンに対する憤りを激しく覚えました。
大切な人に別れを告げるお葬儀が、悪魔やサタンを召喚する儀式になっているという事実は、本当に許せません。
しかも、葬儀が終わったあとも、初七日や四十九日など、何度もお坊さんのお経は続きます。
見るに耐えられない光景です。
この経験をしたときの私は、自分の体と霊が、全力で悪魔とサタンを拒絶していることを身をもって実感しました。
今思うと、神様はこのとき、仏教の悪魔崇拝がどれほど酷いかということを、私に身を持って体験させ、示してくださったのだと思います。
本当に、人々を不幸に突き落とそうとする悪魔やサタンが一刻も早く滅びることを願います。
そして神様の愛に、一人でも多くの人が気付き、目覚めてほしいと願います。
私は霊的にそこまで敏感ではありませんが、エリカさんはとても敏感な方です。
御言葉で、私たち一人一人に備わっている『霊』は、神様を愛したいと願っているのだと教えてくださいました。御言葉に従っていくと、自分でも、自分の霊が神様の愛を求め、神様を愛したいと願っているのが伝わるようになってきます。
霊は神様を喜ばせて差し上げることで自分の霊も喜びが伝わり、成長していくのです。
ですので、こんな神様を冒涜するお経を聞いて霊が苦しまないわけがありません。
このような悪しき風習がすべて消え去ることを心からお祈りします。
もう、神社仏閣が崇高な宗教だという考えは一切捨てましょう。
悪魔を拝んでも絶対に幸せになれません。
熱心にお経を唱えていた家庭が落ちぶれていった恐ろしい体験 本物の神様を拝んでこそ人は真に幸福に生きられる(RAPTブログ読者・アヤさんの証)
神様は人間の幸せをどこまでも願ってらっしゃる神様です。しかし、本当の幸せになるためには守らなければいけないことも沢山あり、厳しさも必要です。そうしなければ人間の心が悪に流されてしまうからです。すべてが愛ゆえの厳しさなのです。
悪魔や偶像や天の万象を拝んでも、それらには神様以上の力はありません。一時的に力を貰えたとしても、人間を生け贄に捧げたり、幼児虐待をしなければいけないなんて、代償が大きすぎますし、地獄に落ちる結末が待っているだけです。
サタンは自分たちがそう生きるしかないので、神様を信じる人に嫉妬し、人々を道連れにしたいのです。
聖書では、アッシリアという敵国が神様を冒涜し、ユダ(イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂しました)に戦いを仕掛けているシーンがあります。
アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来て、布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。 彼らは王に呼びかけると、ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアが彼らの前に出て行った。 そこでラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。 ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。 今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。 お前たちは、『我々は我々の神、主に依り頼む』と言っているが、ヒゼキヤはユダとエルサレムに向かい、『エルサレムにあるこの祭壇の前で礼拝せよ』と言って、その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのではなかったか。 今わが主君、アッシリアの王とかけをせよ。もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう。 戦車について、騎兵についてエジプトなどを頼みにしているお前に、どうしてわが主君の家臣のうちの最も小さい総督の一人すら追い返すことができようか。 わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」
ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアは、ラブ・シャケに願った。「僕どもはアラム語が分かります。どうぞアラム語でお話しください。城壁の上にいる民が聞いているところで、わたしどもにユダの言葉で話さないでください。」 だがラブ・シャケは彼らに言った。「わが主君がこれらのことを告げるためにわたしを遣わしたのは、お前の主君やお前のためだけだとでもいうのか。城壁の上に座っている者たちのためにも遣わしたのではないか。彼らもお前たちと共に自分の糞尿を飲み食いするようになるのだから。」 ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。 王はこう言われる。『ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。 ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる、決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない。』 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。『わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。 やがてわたしは来て、お前たちをお前たちの地と同じような地、穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に連れて行く。こうしてお前たちは命を得、死なずに済む』と。ヒゼキヤの言うことを聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。 ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。 国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」 しかし民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。 ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアは衣を裂き、ヒゼキヤのもとに来てラブ・シャケの言葉を伝えた。
この後、エルサレムはどうなったかといえば、
ユダのヒゼキア王が神様にすがりついてお祈りしたことで、アッシリア軍十八万五千人とアッシリアの王であるセンナケリブは死亡しました。
どんなに相手が強国であっても、神様にすがり祈り求めれば勝てるのです。
この法則は今でも働いている絶対的な法則なのです。
悪魔を拝む者達は常に神様を信じる人を攻撃します。それは今の時代も同じです。
しかし、神様の考えである真理を学び、神様を信じてすがりつくことで必ず神様は守ってくださいますし、悪を滅ぼすこともできるのです。
実際に、悪の限りを尽くしてきた中国共産党の滅びを連日祈り求めてきたことで神様が働いて下さり中国共産党は確実に裁かれ、滅びました。その奇跡を私達は目の当たりにしてきました。
〇【裁きに次ぐ裁き】中国共産党大会中に、4つの省で大規模な山火事が発生していたことが発覚 中国政府は火事の被害を隠蔽 追悼デモの中継も封殺
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そして、サタンの考えで生きるより遙かに幸せな生き方ができます。
どんなに仏教や神道を信じても幸せになれないことがお分かりいただけたでしょうか。本物の神様を信じるしか幸せになれないのです。
本物の神様を愛する人たちが増え、本物の幸せを享受されますように。
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