「アイヌ」は悪で世界を一つにしたいユダヤ人の「世界統一政府(NWO」の計画の一環であったことをお伝えしてきました。
前回までの記事はこちらです。
前回は、「アイヌ」に関わる人物を挙げました。彼らがキリスト教に関わっていることを書いていきました。
ユダヤ人というと、ヒトラーが迫害したイメージが強いので、ドイツ人などのヨーロッパ系外国人をイメージするかと思いますが、彼らだけではなく、日本にいる『 ユダヤ人 』も対象になっていたことが分かりました。
目次
- 河豚(ユダヤ人北海道移民)計画は日本にいるユダヤ人も対象だった。ている。正体はキリスト教を破壊してきた創価学会
- 「アイヌ記念館」館長が 飯田線 を建設したのはNWOのため
- 「善光寺」と「藤原鎌足」と「満州」と「ユダヤ人」
- 日本全国のユダヤ人を北海道に
- 北海道開拓史「八王子千人同心」は創価
- 「旭川アイヌ協議会」 の「旭川」は「創価学会」の拠点
「アイヌ記念館」館長が 飯田線 を建設したのはNWOのため
今年(2021年)2月、アイヌ文化の伝承や普及に取り組んだ 「旭川アイヌ協議会」の会長の川村兼一が9日、69歳で死亡したとのニュースがありました。
この旭川アイヌ協議会 会長 の川村兼一について、見ていきたいと思います。
69歳という時点で、イルミナティですね。
川村カ子トアイヌ記念館
川村カ子トアイヌ記念館(かわむらかねとあいぬきねんかん)は、旧近文コタン(現北海道旭川市北門町11)内に設立されたアイヌ民族文化の保護・伝承を目的とする私設の資料館。
施設情報
- 館長 川村兼一(シンリツ・エオリパック・アイヌ)
- 所在地:北海道旭川市北門町11丁目
川村兼一の父親の「川村カ子ト」が「アイヌ記念館」を設立したようですが 、 川村カ子ト は鉄道の測量技師だったようで 飯田線の建設にあたったそうです。
三河川合 – 天竜峡間は三信鉄道によって開通した。建設は天竜峡側、三河川合側の双方から進められ、最後の大嵐 – 小和田間開業でこの区間が全通したのは1937年(昭和12年)である。急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量師で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。これをもって、豊川鉄道の最初の区間が開業してから40年後現在の飯田線である吉田(現在の豊橋) – 辰野間は全通を見たのである。
なぜアイヌの人が長野県の飯田?と思うかも知れませんが、飯田のすぐ近くには、日本で唯一建てられている「満蒙開拓平和記念館」なる施設があります。
なぜこの地域に建てられたかというと、「満蒙開拓団」として満州に 送り出された人達が全国でも、 飯田・下伊那地方(阿智も含む) の人達が断トツに多かったからだそうです。(こちらから)
長野は、ビルゲイツの別荘を装った悪魔崇拝施設があったり、生長の家の宗教施設があったりと、悪魔崇拝者と縁が深い場所です。
RAPT×読者対談〈第122弾〉現代日本の支配構造は、安土桃山時代と全く同じ。
軽井沢の「ビル・ゲイツの別荘」は悪魔崇拝のための宗教施設である可能性大。
「満蒙開拓平和記念館」 のある「伊那」「阿智村」は、百済系渡来人が来た形跡があります。
「善光寺」と「藤原鎌足」と「満州」と「ユダヤ人」
長野には、「 善光寺 」と「 元善光寺 」とがあり、 本尊を最初に安置したのが長野県飯田市 の「 元善光寺 」だそうです。
善光寺 は「一生に一度は善光寺参り」という言葉があるほど重要視されていたわけですが、 元善光寺縁起によれば、推古天皇10年に信州麻績の里(現在の長野県飯田市座光寺)の住人、本田善光が難波の堀から一光三尊の如来像をつれて帰り、自宅西側の部屋の床の間に臼を置き、その上に安置したのが起源とされています。 (こちらから)
「 善光寺 」の名前は 如来像をつれて帰った「本田善光」 が由来してつけられたわけですが、
この 「本田善光」は 、あの 「扶余豊璋」の弟だと言われているのです。
そして「扶余豊璋」 といったら、 藤原鎌足です。
善光寺の名前の由来
天智天皇から藤原鎌足の名をもらって帰化した百済王子:扶余豊璋の弟王子の名前が扶余善光です。
藤原鎌足についてはよく知られていても、善光(禅広・禅広)については知らない人が多いと思います。631年に百済から人質として2人の兄弟王子、豊璋と善光が日本へ送られてきました。人質といっても、百済と日本は同盟していたので客分扱いでした。(こちらから)
善光寺の元あった場所や、今ある地域は、5世紀頃から朝鮮半島国の『百済』や『高句麗』出身
の人たちが移住した地域としても知られているそうです。
藤原鎌足 といったら「麻生太郎」の先祖ですね。「麻生百年史」という分厚い本にそう書かれているそうです。(こちらから)
扶余豊璋は「扶余族」の 豊璋 という意味ですが、扶余族は満州付近にいた民族でした。
この付近にある麻績神社にも秦氏などの渡来人の言い伝えがあります。
麻績神社。八幡神(誉田別命)と諏訪神(建御名方命)を祀っている。古代伊那郡に麻績郷はあった。伊那は員弁(いなべ)=伊那部であり、摂津国河辺郡為奈(いな)に渡来した員弁の末裔ともされ、イナ、エナの地が伊勢、美濃、三河、伊豆にもあり、恵那山を越えたり天竜川を遡っている。麻績についても、「麻績」族、機織り・養蚕の秦氏、阿知の使主(おみ)などの説がある。いずれにしても渡来系である。善光寺縁起では信濃に仏像を運んだ者を当初、「秦巨瀬太夫」または「若麻績東人」としている。
この「 麻績(おみ) 」というのも、「藤原鎌足」の元の名前である「中臣(なか+おみ)」の由来になったのではという人もいます。
つまり、この地域には渡来人である「藤原氏」の親戚が沢山いるというわけです。
春日大社のルーツと歴史 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究
彼らは元はイスラエルから来たユダヤ人でした。
秦氏もユダヤ人ですね。
こんなツアーを見つけました。
杉原千畝ゆかりの地と満蒙開拓平和記念館、無言館を訪ねる旅 3日間
杉原千畝ゆかりの地 ⇒ 満蒙記念館 ⇒松代地下壕の順で回るそうです。
この最後の松代は、皇室を移転させようとして場所で、悪魔崇拝施設であったのではと言われています。「松代」と小児性愛者・悪魔崇拝者で有名な「ビルゲイツの別荘」と、 「皇室」と、 ちょうど一本で繋がります。
【悪魔崇拝施設】東京から軽井沢のビル・ゲイツの別荘まで続く“地下通路”が存在していた!!
杉原千畝 といったらユダヤ人を日本に連れてきた人ですよね。
知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 | 杉原千畝と「命のビザ」 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~
杉原千畝と満蒙記念館と一緒にツアーにするということは、やはり満州にユダヤ人を入れようとした計画は間違いなさそうです。
飯田線の終点の諏訪(上諏訪)は、イスラエルと非常にゆかりがある場所です。
南信州を訪ねて 4: 満蒙開拓平和記念館 – アクアコンパス 3 世界の歴史、社会、文化、心、読書、旅行など。 (goo.ne.jp)
長野県の人々が満州に駆り出されたのも、ユダヤ人が多く住み着いている地域だったからという理由だったのでしょう。
もちろん連れて行かれた人達はそんなこと知らない人達がほとんどだと思いますが、計画を立てた人間は完全に知っているはずです。
ユダヤ人というと、ヒトラーのイメージがありますのでドイツ系のユダヤ人ばかりを想像しますが、
日本にいるユダヤ人の末裔も満州に移住させようとしていたということだったのですね。
その計画が失敗したから今度は北海道に彼らを移住させようとしたのではないでしょうか。
ジョン・タイターの予言は既に着々と実現しています。「蝦夷共和国」はユダヤ人を北海道に移住させる「河豚計画」の一環として誕生する予定です。
満州国へのユダヤ人移民計画が失敗し、パレスチナにイスラエルが建国されるまで。または「河豚計画」が声を大にして語られない理由。
飯田線は、豊橋から諏訪方面に上に伸びていますが、鉄道を乗り継いでいくと北海道に辿り着きます。
この飯田線も、ユダヤ人を北海道に移住させる「河豚計画」や 「NWO」 の一環なのかもしれません。
ちなみにリニア中央新幹線も「飯田」が駅になっています。リニアも同じ理由でしょう。
最近リニアの話は聞きませんが、頓挫しているのでしょうか。
日本全国のユダヤ人を北海道に
出雲族の満州人脈が移住させようと思っていたのは、長野県民だけではありませんでした。
移民—北の大地をめざして から以下抜粋
急増する北海道移民
そこで北海道庁は、開拓使時代の個人・家族に直接給付をする政策を改め、官庁は道路や港湾の建設に力を入れ、資本家や企業を保護するように政策を転換しました。その結果、東北、北陸、四国をはじめ、全国から会社組織や団体での移住がすすみ、単独移民もふくめ大量の移民が北海道にやってきました。北海道庁は、移民向けに「北海道移住手引草」という案内を作り、移住者には北海道への交通費が割引されました。
団体移住では、災害に見舞われた奈良県十津川郷の人びとが入植した新十津川をはじめ、山口県の山口団体が恵庭へ、徳島県阿波団体が仁木へ、富山県砺波地方から栗沢町砺波や芦別へ、広島県から北広島へなど、現在の北海道の市町村誕生の基盤をつくっていきました。
また、大農場への小作として団体で移住したものも人びともいました。北海道には、移住者たちの故郷の母村の文化がいまも残る地域もあり、さまざまな文化が北海道の風土のなかで混在することで、北海道らしさも生まれていきました。
奈良県 も 山口県 も 徳島県 も 富山県 も 広島県 もユダヤ人に関係が深い地域です。
山口県は、安倍晋三の出身地であり沢山の総理大臣や企業家や経営者を出している、あの「田布施一族」の地ですね。
フランシスコ・ザビエルと田布施システムの怪。明治維新は「清和源氏」の末裔による権力獲得のためのクーデターでした。
富山県は 出口王仁三郎とゆかりがある地域です。
出口王仁三郎は、源義経(チンギスハン )と同じように、世界征服を目論み、モンゴルへ行って、新しい国を建国しようとしました。
それが「満州国」です。
出口王仁三郎は、満蒙の地は「こしの国」である、と述べています。
王仁三郎は、「王仁」の子孫でもあり、「こし」の子孫でもあるようです。
こし=高志=越(8世紀以降)
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の、大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。のちに令制国への移行に際して分割され、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となった。越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)などの地域名称の語源である。
東大寺大仏造営事業に携わった「行基」は王仁氏の子孫とも云われていたが、この由緒に拠れば、百済崩壊に伴い大和朝廷に亡命した百済王族の末裔で、「本名は高志」と言い、先祖は「高志国」の出身とも云われています。
越国 ・ 越州 の中に富山も思いっきり含まれていますね。
この地域に残されている「根葺小屋」が、 アイヌの「チセ」と間取りまで一緒 のようです。同じ民族ということですね。
「根葺小屋」と呼ばれる白山山麓の出作り小屋は、壁なしの伏屋であるが、その間取りはアイヌのチセと全く同様である。単室の中央にいろりがあり、作業用の前室がついている。飛騨の白川郷や越中の五箇山では、この種のものを「股建」と呼んでいる。—-、と書かれていて、白山山系の周囲に、石川県だけではなく富山県、岐阜県にも、この出作り小屋の習慣が広く残り、その間取りがアイヌのチセと全く同じであることが明確に書かれていた。アイヌのチセというのは、家という意味で、普通の住居を指す。そのチセの間取りには、きちんとした掟があり、祭壇はどこ、主人の座はどこ、客人の座はどこと、宗教観やしきたりにのっとり厳密に決められているものである。ただ偶然にそのような間取りが白山の出作り小屋と一緒になるはずがない。同じ宗教観やしきたりがなければそのようなことは無理なはずである。したがって、この川島さんの本で、私は出作り小屋の習慣は縄文人やアイヌ人の習慣の残照であることを確信した。
徳島県は「天皇」の行う「大嘗祭」のために代々、「麻」の着物をつくって献呈してきた氏族である「阿波忌部氏」の拠点です。
RAPT×読者対談〈第127弾〉イルミナティの終焉まであとわずか。
北海道開拓史「八王子千人同心」は創価
その中でも、「八王子千人同心」という集団が「北海道開拓団」として大量に入植したそうです。
「八王子千人同心」は 今の東京八王子にあたる場所で農家をしながら幕府の武士としても仕事をしていた集団のようです。
まだ開拓使が生まれる前の幕末に、最初の「開拓団」ともいえる人びとがいました。1800(寛政12)年に武州八王子から蝦夷地と呼ばれていた北海道に渡った八王子千人同心です。
幕府は、蝦夷地を直接治めることでロシアに対する備えを強化しましたが、このことを聞いた八王子千人同心の組頭原半左衛門は、弟新介とともに同心子弟約100人を連れて蝦夷地に渡り、半左衛門が白糠(現・白糠町)へ、新介が勇払(現・苫小牧市)に入りました。現在、苫小牧市と八王子市が姉妹都市提携を結んでいるのは、これが縁になっているからです。
大地を拓く—開拓の始まり | AKARENGA(あかれんが)
この八王子は創価信者が多いことで知られています。
八王子千人同心は、もともと甲斐の武田氏の遺臣だったそうです。(こちらから)
先程、長野の善光寺の話を出しましたが、 武田信玄は 長野の善光寺の御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで善光寺をまるごと甲府に移したそうなのです。
それが今の 甲斐善光寺 だそうです。
善光寺は百済から来た扶余善光が由来だと書きましたが、
武田信玄の住んだ、信濃・甲斐国は昔から渡来人の住んだ痕跡のみならず仏教でもその形跡が見られます。そしてそのお寺には朝鮮半島から渡来したり、渡来人が作りし観音像、仏像が残っています。
なので武田信玄も朝鮮人といわれているわけですが、 その武田信玄の遺臣が『 八王子千人同心 』であり、八王子は『創価』が多いとのこと。
繋がりますね。
北海道開拓に携わった「創価」「朝鮮人」「中国人」が『アイヌ』を進め、
「NWO」を進めるために日本中にいる自分たちの仲間を満州が失敗したため、北海道に住まわせようとしていたのですね。
それを今では、中国や朝鮮にいる李家を中心に移民させようとしているということでしょう。
「旭川アイヌ協議会」 の「旭川」は「創価学会」の拠点
この川村兼一という人物は、 「旭川アイヌ協議会」 の会長をしているようです。
「旭川」といえば、つい先日「女子中学生のいじめ凍死事件」 が起きました。
【旭川女子中学生いじめ凍死事件は氷山の一角】旭川は児童売春が横行する創価学会の一大拠点!! 抵抗した少女たちは自殺に見せかけて殺害され証拠隠滅
実は「旭川」 は組織だった「 創価学会や暴力団による児童売春」の拠点 になっていたようです。
【旭川女子中学生いじめ凍死事件】旭川市長が少女の死を単なる“いじめ”と片付け、 創価学会や暴力団による少女売春の隠蔽を図る
この事件は、単なる子供同士のいじめによる事件ではなく、加害者、教師、教育委員会、旭川市長、PTA、彼女の周辺人物が「創価学会」であり、 少女が「児童売春」に抗ったために殺されたと言われています。
○旭川という街は元々が🇯🇵陸軍と公認売春の『赤線』で発展した街 今も貧乏女子達は金持ちの性奴隷にされてるSEX街です
前回まで、アイヌと創価の繋がりを書いてきましたが、「アイヌ記念館」が、創価の蔓延る旭川にあるのは偶然ではないでしょう。
その川村兼一は、 神戸市で開催された神戸国際キリスト教会の牧師が主催の「人権」について考えるシンポジウムなるものに参加して語っています。
「誰もが加害者・犠牲者になり得る」 外国人居留地設置150年の神戸で人権考えるシンポ : 社会 : クリスチャントゥデイ
「アイヌ」が『創価学会』にも『キリスト教』にも関わるのは、偶然ではありません。
「キリスト教」を装った悪魔を拝むユダヤ人が進めているということを、次回に記事にしていきたいと思います。
「アイヌ」がユダヤの陰謀ではないと馬鹿にしているサイトをいくつかみかけましたが、
「アイヌ」のみならず、ユダヤ人がこの世のあらゆる事件に関わっていることは確かです。
どのように関わってきたか詳細に示していきたいと思います。
追記
アイヌとキリスト教について、こちらの記事になります。
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