これまで、仏教や密教がいかに悪魔的な教理に満ちているかを書いてきましたが、やはり、仏教や寺は地獄そのものではないか、地獄を具現化させているとしか思えないと思いましたので、記事にしたいと思います。
神様は偶像崇拝を聖書の中で禁止されています。
人間が手で作った偶像には神様のように人間を本物の幸せに導く力はないからです。
また悪魔崇拝者は偶像を慕って淫乱なことをしたり、人を殺して生贄に捧げていると聖書に書かれてありますが、彼らは実際に普通の人間には考えられない非人道的な行ないをしています。
‘なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 ‘
ローマの信徒への手紙 1:21,23-25
偶像が実際に悪魔(サタン)の象徴であることを書いていきたいと思います。
寺に置かれている仏像ってなんだか不気味でおどろおどろしいですよね。
RAPTさんがある日の御言葉で、「地獄にある仏像を悪魔崇拝者達が祈って霊感を受けて作った」という話をされていたのを聞かせていただいた時、
私は映画「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」のあるシーンを思い出しました。
主人公がシャングリラの眼を持ってシャングリラ(シャンバラ)にいくシーンがあるのですが、大きな仏像が何体もあるのが印象的でした。
シャンバラは「仏教の理想郷」といわれていますので当然と言われればそうなのですが。
単なる映画だと思われそうですが、この映画に登場する秦の始皇帝らしき人物とエジプトもシャンバラも歴史的に確実に繋がっています。彼らは自らや先祖達がしてきたことを作品に込めますから。
RAPT | 世界を密かに支配するドルイド教の歴史。ドルイド教とゾロアスター教と古代エジプトと古代ギリシアと古代中国と永世中立国スイスとロスチャイルドと秦氏の奇妙なつながり。
シャンバラといえばたまに小説やアニメに出てきますが、まるで理想世界のように伝えられており、彼らが憧憬しているのが分かります。
そのシャンバラは実際にチベットやネパールにその入り口があるとされ、その地下には地底世界が広がっていると書かれている記事をよく見かけます。
「シャンバラとは?果たす役割は?」地底世界への入り口は実在した!! | スピリチュアルセミナーAitree
昔、大洪水などの天変地異を逃れたある民族が、山中の洞窟に避難し、最終的に地底に都市を建設したようです。そのある民族がアーリア人なのでしょう。
アーリア人は様々な宗教を作り、悪魔思想を広めてきた民族です。
他のインド・アーリア民族と同様に、アーリア人の間でも人身御供は一般的であった。インドでは、人身御供はプルシュ・メデーハと呼ばれていた。古代イランでも人身御供が報告されている。例えば、ヘロドトスが伝える曖昧な記録によると、クセルクセスの妻アメストリスは、冥界に住む神への感謝として、老齢の貴族の男子14人を生き埋めにした。また、ヘロドトスによると、クセルクセスの軍がギリシャ遠征中にストロモンに到達した際、「9つの道」を意味する場所に、そこで生まれた9人の男女を埋葬した。生き埋めはペルシャの習慣であるとするヘロドトスのこの記録は疑わしいものである。しかし、軍神やその他の神々への人身御供は、スキタイ人の間では一般的だった可能性がある。イランにおけるゾロアスター教の普及と、後期ヴェーダ時代の非暴力信仰(アヒンサー)により、この宗教は廃止された。
クセルクセスはアーリア人と自称した王ですが、妻が神への感謝で男子14人も生き埋めにしたなんておぞましいですね。
本物の神様は人間の死を要求することはありません。
そもそもシャンバラは伝説の仏教王国と言われていますが、アーリア民族の原郷とも考えられていて、ナチスが視察に来たほどでした。
しかしドイツの探検家テオドール・イリオンが1934年にチベットに単身入国し、地下都市があるとされるサンポ渓谷に入ったところ、そこは理想郷なんかではなく、人肉食の習性を持ち人間の魂を奪い取る「闇の霊団」の国である事が分かり、決死の脱出を図ったそうです。
RAPT | ナチスとチベットと緑龍会との関係について。そこには地底都市シャンバラの存在がありました。
信憑性は分かりませんが、悪魔崇拝者が人肉を食べていることは明らかなので、有り得ない話ではないですね。
シャンバラは理想郷ではなく地獄。そのシャンバラには仏像がある。
実際に死後の世界である地獄にも偶像があるのでしょう。
なぜ神様が聖書で口を酸っぱくして、偶像崇拝を禁止されているのかがまたこれらのことを踏まえ、一層理解出来ました。
偶像を拝むということは、私達の霊魂が地獄にむかうことでもあるのです。
ここで仏像の手の配置に焦点を当ててみます。
こちらはバフォメットという悪魔です。

こちらは長崎の平和祈念像です。
戦争は悪魔崇拝者達が起こしたものなので、勝利した側が拝んでいた悪魔の像の形を模して記念に建てたのでしょう。

手の形が、仏像と同じではありませんか。


とても偶然とは思えません。
また、ヒンドゥー教の神であるブラフマーですが、ブラフとは【はったり】という意味があります。
ブラフの意味は、「虚勢」「はったり」「こけおどし」「手の内が強そうに見せかけること」です。
類語は「はったり」「虚勢」。
たまたまだと思われるかもしれませんが、彼らは文字や数字に意味を込めたりするのが大好きな人達です。
虚偽の映像ばかり作って宇宙詐欺をしていたことが分かった【NASA】は、SATANのアナグラムです。

悪魔崇拝者である天皇の皇后雅子と秋篠宮文仁親王の妃・紀子も名前が交互になっています。

その他にも事例は沢山あります。
ちなみにブラフマーは仏教では梵天と呼ばれていますね。
梵天は仏教の世界観において最高位の一つである梵天界(Brahmaloka)の主であるそうです。
仏教も悪魔崇拝者が作り出した悪魔の教えでしかありません。
また、仏教と言えば、仏壇を拝む習慣や墓参りが日本人のしきたりになっています。
衰退している檀家制度ですが、元は蘇我氏や秦氏が寺院を建立し、仏教諸宗派を保護したことから始まったようです。時代が経って彼らの信仰対象だった仏教が家単位になっていきました。
檀家とは「檀越(だんおつ)の家」という意味である。檀越とは梵語のダーナパティ(dānapati)の音写であり、寺や僧を援助する庇護者の意味である。例えば飛鳥時代において、蘇我氏や秦氏といった有力な氏族・豪族が檀越となって寺院(氏寺)を建立し、仏教諸宗派を保護した。ここで特に檀家という場合には、それまで有力者の信仰対象であった仏教が広く社会に浸透し、氏族単位が家単位になったということである。檀家という言葉自体は鎌倉時代には既に存在していたが、現在の意味合いになるのは荘園制の崩壊によって寺院の財政・社会基盤が変化してからである。そして江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度が檀家制度の始まりである。
秦氏とは残虐な秦の始皇帝の子孫たちですから。彼らの拝む悪魔教を庶民に広め、先祖崇拝は先祖に対する崇敬の念を示すためにも極めて大切な習慣であると思い込ませ、今日では墓終いをしない限り、寺とは切っても切れない関係になってきました。
寺の財政も、有力氏族から得られなくなった収入源が家族に移り変わり維持されてきたわけです。
仏壇を拝むことや墓参りは日本人として、先祖に対する礼儀であり、”あるべき姿”であると思われてきました。先祖のおかげで自分たちが生かされている。だから弔わなければいけない。
その様に言われれば、最もだと思うかもしれません。私もそう思っていました。
しかし、真理を御言葉で知り、先祖よりもっと偉大な存在である神様が私達人間を生かして下さったことを知りました。
むしろ祖先崇拝や仏壇を拝む風習は、悪魔崇拝者達の汚れた悪習から由来していることを知りました。それをあたかも”美風””国風”のように思わされ、しなければ徳が欠如していると思われる。そう洗脳されてきました。
しかし霊的に見ても、天の霊(神様に繋がらずに死んだ霊)を拝むことは危険な行為なのです。
私達は、誰かに憧れを抱いたりすると、意識を向けたところに似ていきます。
人間の霊魂は神様や天に近づくように生きると霊魂が清められ、喜びで満たされますが、この世の中のものに意識を向けて生きるといずれ苦しくなります。この世の中のものは悪魔を拝む人達が人間が神様に繋がらないように長い間かけて作り出した世界だからです。
天の霊以外の霊に意識を向けても決して幸せになれません。
霊界のことを知っている支配者達は人間の霊魂が地獄に落ちて欲しいのです。
悪魔が天から追放された者達だからです。
普通に考えて、地獄で生きるのと天国で生きるのとどちらが良いでしょうか。
天国も地獄も階級が沢山あり、高い階級の天にいく方がより神様に近くすることができ、愛に満ちあふれ、より幸せに満たされて生きることができますが、逆に地獄は本当に悲惨な世界だと教えて下さりました。
2025年1月10日(金)
毎日きちんと全ての罪を悔い改めなさい。そうしてこそ、きちんと聖霊の導きを受けて、肉体が死ぬまでに自分の霊魂を天国に入れる状態に作ることができる。罪を悔い改めなければ、聖霊の導きを受けられず、努力したことも全てが無駄になり、死んだ後も天国には入れない。
だからこそ神様は一人でも多くの人の霊魂を天に引き上げてあげたいと願い、御言葉をRAPTさんを通して伝えて下さっています。
そのためには、生きている間に一心に神様を愛し、神様に心を向けて生活する体質に作っていかなければ行けません。私自身、自分がそのように成長するほど、心も体も軽くなり、神様や天の諸霊が共にしてくれているのを感じ、自分の力では乗り越えられないことも沢山乗り越えることができるようになりました。
しかし、この世の中にあるものは無駄なものや知識、また堕落的な文化芸術ばかりです。サタンを拝む者達はあえてサタン的なものでこの世の中を満たして、人間の霊魂が地獄に行くように仕向けてきたのです。
しかし最近そんな風習も廃れつつあります。神様が全ての悪を無くそうとされていますし、私達も祈っているからです。
先祖を崇拝しても誰も幸せになりませんが、神様を愛すると自分以外の人たちも救われ、幸せになります。
ただ神様を愛し、天からの霊を受け、その愛を広げていくほうがどれ程素晴らしい生き方でしょうか。
この事に気付かれる方が一人でも多く現れますように。
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